鎌倉散策 五代執権北条時頼 四十九、北条重時と極楽寺流北条氏 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 康元元年(1256)三月十一日に、北条重時は連署を辞して出家し、法名を観覚と号した。熱心な念仏信者であったとされる北条重時は、『歴代皇記』において「年来の素意」によるものとし、晩年を仏道修行において余生を送る事を表明していたと記されている。ここで、北条重時と極楽寺流北条氏に付いて記す。北条重時は建久九年(1198)六月六日の生まれで、この年で五十九歳であった。重時は、父が二代執権北条義時で、母が比企朝宗の娘・姫の前であり、三代執権・北条泰時の異母弟であった。比企の乱において母・姫の前は離別されている。重時は、同母兄の名越(北条)朝時がいたが、その朝時よりも異母兄である泰時を慕い、泰時からも信頼を受けた。この当時、長子である泰時は嫡子として執権を継承される保証は無かったとされる。重時は、利算的に泰時に従事したのではなく、泰時の人間性と重時の人間性が融合したものであった。重時は、承久三年(1221)に起こった承久の乱には参戦せず、その武勇の質は記されていない。実務管理に優れている点と表裏を見せない重時を執権となった泰時が見込み重用したのである。

 

 承久の乱後の諸問題は解消できたが、その後の新たな朝廷との協調関係を構築する上で重要であったのが六波羅探題であった。泰時の後任の六波羅探題に重時を就かせた事は、重時の実務管理と人間性において、特に六波羅探題の職務にとって適任であったと考えられた。四条天皇の急死により揺れる天皇即位問題で、北条泰時と重時の連携は見事なものであった。後高倉院の血統が絶える中、仁治三年の政変として西園寺公経と九条道家が擁立を行った順徳天皇の皇子・忠成王に変わり、承久の乱で乱に関与しなかった土御門上皇の皇子である邦仁王(後嵯峨天皇)を幕府が擁立する。全く後ろ盾のない後嵯峨天皇は幕府(北条泰時と重時)に恩義を感じたのであろう。その結果、九条道家の朝廷での権力を消失させることとなった。その後に起こる鎌倉での宮騒動において、摂関将軍の頼経と頼嗣の存在は、幕府の体制を維持する御家人制度の根幹を揺るがす存在であった。宮騒動の後、将軍家(頼経)の追放と将軍職を継承した頼経の子息・頼嗣は、宝治合戦後に京に帰還させた。摂関家将軍を追放し、新皇将軍を擁立するが、その背景には、後嵯峨天皇の北条重時との信頼関係があった事が、その成功の要因であったと考えられる。北条重時が鎌倉に連署に就くために鎌倉に下向した際、四条天皇は重時との別れに、『葉黄記』において「相州(重時)の許に向かう、心閑に面謁す」とのみ記されているが、惜しみ労をねぎらった事であろう。重時が京を離れた事により、七月七日の法勝寺八講への上皇御幸は急遽取りやめとなっている。これは、重時がいなくなった京都の治安の問題として捉える事もあるが、後嵯峨上皇の不安と寂しさがもたらした事であったと推測する。

 

(承久記絵巻)

 連署に就いた重時は、執権北条時頼を補佐し、関東安泰と幕府安念のため幕府の基本施策を撫民として捉えて追加法を制定していった。そして北条時頼に娘の葛西殿を嫁がせて岳父(舅)として北条得宗家と極楽寺流北条氏の地位を固めている。

北条系図において記されているのを見ると、北条重時の子に関して、為時、長時(極楽寺流赤橋氏の祖)、時茂(極楽寺流常盤氏の祖)、業時、義政、忠時、葛西殿(北条時頼継室)、娘(安達泰盛室)、娘(戸次重季室)、娘(宇都宮経綱室)、娘(北条公時室)、他となっている。妻を苅時義季の娘(荏柄尼西妙:えがらのあまさいみょう)、継室には従三位兵部卿の平基親の娘(治部卿局)、側室に家女房筑前局、少納言局がおり、為時の母が苅時義季の娘、長時、時茂の母が平基親の娘、業時の母が筑前局、義政の母が少納言局であった。

  

(鎌倉 荏柄天神)

 長子・為時は、安貞二年(1228)に母、苅時義季の娘に生まれているが、嘉禎二年(1235)、八歳の時に疱瘡(天然痘)に罹患し、重篤に陥り、その後に健康を損なったため廃嫡された。この年の『明月記』十月十六日条に「重時最愛の嫡男八歳が疱瘡で死去し、乳母夫妻が悲しみのあまり出家した」とある。十月二十九日条には六歳の次男が夭天したとの誤報が流れた事が記され、情報が錯綜していた。後に家督をついだ長時が寛喜二年(1230)生まれで、この時には六歳の次男であった事から、疱瘡で重篤になったのが八歳の嫡男の為時とされる。『北条氏系図』には、為時が時継と名を改めて母方の所領陸奥国苅田郡(現、宮城県蔵王町・七ヶ宿町)を継承して苅田時継と改名した。長重ら五人の子がいた事が記されている。『明月記』の死去の記述が誤報と見られ、『北条氏系図』には「物狂」と記されているため疱瘡の重篤化により精神疾患を伴う後遺症が残ったと見られる。没年は未詳であるが早世したとみられる。為時の母・苅時義季の娘は、次期は不明であるが為時廃嫡後に重時と離別したと考えられ、後に尼となり荏柄尼西妙と呼ばれている事から鎌倉の荏柄天神付近に住んでいたと考えられる。為時の廃嫡により、嫡子となったのが二男の長時であった。そして母の平基親の娘が重時の正室となっている。

 

(鎌倉 極楽寺)

 宝治合戦後、北条重時が連署に就くと、子の長時が六波羅探題に就き、重時が出家をして幕政から離れると、康元元年(1256)三月二十日に、六波羅探題を辞して出京し、同月二十七日に鎌倉に帰着した。四月十三日に重時三男の時茂が、六波羅探題北方に就き上洛している。この年に『六波羅殿御家訓』、『極楽寺御消息』成立されたと推測される。この『六波羅殿御家訓』は、私見であるが時茂が六波羅探題に就任する際にも持たしたものと考えられる。前六波羅探題の長時は、重時の手元の京都で、探題職の職責を説いていたと考えられ、初めてその職につく時茂に宛てたものと考える。四十三ヶ条からなる物で、前文には、「子供はたとえ親が資質の劣った人間でも、それよりさらに劣る、ゆえに、親の言う事を聞き、この家訓通りに行動せよ」と説き、親への服従を求めている。六波羅探題としての行動として、神仏を敬い、慈悲を掛けるなど人の上に立つにふさわしい行動を促すよう。また従者の接し方や、人を罰する際に冷静な判断を促し、他社からの手紙や贈り物への応対の仕方などが記されている。また、不測の事態に際して、いかなる時も刀を錆びさせてはいけないと警告している。そして、得宗家を「親カタ」と記し、執権の前でとるべき態度も三条文が備わっている。また常識を説く物として「人のいるところで唾を吐きたくなった時、遠くへ吐き飛ばすことは人の迷惑を顧がみない悪いやり方である」と重時らしい考えを記している。『極楽寺御消息』は、極楽寺流北条氏の一族に対しての家訓として記された物であり、『六波羅殿御家訓』と同様九十条を条文化したものである。宗教的な権威を持って、教訓を正当化、神格化している記述が多くみられる。

 

 同年三月三十日に北条重時の後任として北条正村が連署に就任した。翌月の四月十日には、時頼の祖母・矢部禅尼(北条泰時の妻)が享年七十歳で没している。同年六月二十七日には、北条重時の娘・宇都宮経綱室が流産後に赤痢を患い若くして死去した。享年は不明であるが、その妹が再び宇都宮経綱室となった。同年七月二十日には、嫡子・長時が武蔵守に任ぜられ、後の建長八年に執権であり義弟の時頼が病のため時頼の嫡男・北条時頼に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎ(眼代)として六代執権に就任している。北条重時は弘長元年(1261)六月に病に倒れ、同年十一月三日に極楽寺別業で享年六十四歳にて死去した。 ―続く