鎌倉散策 五代執権北条時頼 四十八、建長六年 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 建長六年(1254)正月を迎え、北条時頼の差配で埦飯の儀式が行われた。御剣に北条正村、御調度に大仏朝直、御行縢に名越時章が就いた。二日の埦飯は足利正義・義氏に寄り差配され、御剣に大仏朝直、御調度に名越時章、御行縢に二階堂行方が就き、三日は北条重時に寄り差配され、御剣に名越時章、御調度に金沢実時、御行縢に宇都宮泰綱が就いている。将軍・宗尊にとって二度目の鎌倉の正月であり、その行事をこなした。

三月七日に、北条時頼が書写していた大般若経の供養が鶴岡八幡宮にて行われ、導師は別当僧正隆弁であった。

四月十二日には、北条時頼が正寿・福寿(後の時宗・宗政)の息災延命のために聖福寺の建立を開始した。現在は廃寺となっており、稲村ケ崎にあったとされる。

 

 北条時頼・重時は、この年においても幕府の統制強化を計り、追加法の制定に動いた。

 四月二十七日、鎌倉の雑人・非御家人が成敗に従わず不法行為を行う事について取り締まりを強化するよう政所に命じた。

また、四月二十九日、唐船制限令を出す。先述していた通り、鎌倉期において幕府はこの時期から元寇までの間、最も経済的に発展した時期でもあった。この法令は、贅沢禁止とする倹約令の一環と考えられ、鎌倉の和賀江島に入港できる貿易船を五艘に限定しており、幕府の「徳」を示す徳政の一つであったと考えられる。しかし、貿易品の抑制には繋がっておらず、五艘を超える入港した船に対しての対応や処理についての記載はその後も無い。幕府は商業一般に対しての方針と同様に、対外貿易に関しても抑制を目指しつつ、自らの統制下に置こうとしていたと推測する。対外貿易についての多大な利益が生まれ、幕府の権益を強め、商人および他の御家人においての資金拡大を抑制するためであったと考えられる。

 同年五月一日に、人質について審議が行われた。人質とは人心に借財の質物とする事、また質物とされた人で、この日、人質の扱いについて定められる。「御禁制の以前に質券に入れて流したとしても、御禁制の後に訴訟した者は、早く約一倍(現在で言う二倍)の金額を払い取り戻すように、通常の質についてはそのようにしない。およそ御禁制の後は、人質はすべて禁止するという」。

 

 宝治合戦後、七年を過ぎて、二年前に親王将軍を擁立した鎌倉では、宗尊親王近臣の武芸怠慢を見て、宝寿時頼が誡めている。

『吾妻鏡』建長六年(1254)閏五月一日、「相州(北条時頼)が酒などを携えて御所に参られた。将軍家(宗尊)が広御所(将軍御所の広間)にお出ましになり、御酒宴は数献に及んだ。近習の人々が召し出され、それぞれ酩酊した。その時に時頼が申された。『近年は武芸が廃れ、自門も多門も共に職分ではない才芸を好み、何かにつけて自らの家の礼を忘れています。不都合な事です。そこで、弓馬の芸については追っ手試合を行い、まずこの場で相撲を行われ、勝ち負けによってお褒めやお叱りをなさいますように』。宗尊は特に面白がられた。この時、あるいは逐電し、あるいは固辞する者がいた。陸奥掃部助(陸奥掃部助:金沢実時)を奉行として、逃れようとする者は永く召し使わないと何度も命じられたため、十余人が渋々試合を行った(衣装は脱がなかった)。長田兵衛太郎(広雅)が召し出されて砌(みぎり:ちょうどその事が行われる時に現れて)に祗候し、勝敗を判定した。譜代の相撲人だからである…」。同月十一日には、奉公の諸人にもそれぞれ弓馬の芸に励むよう命じられた。御所野花伝で連日、笠懸が行われ将軍宗尊も内々に射られるようにと言われている。度の時代においても、世の中が安定すると武芸が必要とされなかったのであろう。

 

(鎌倉市大船 常楽寺)

 同年六月三日に安達義景の一周忌が、導師を左大臣法印厳恵として真言供養にて行われた。また、北条時頼邸にて法華八講(法華経八巻を、八回に分けて講説する。多くは朝夕に座四日に分けて行われるが、ここでは三日で結願した)の法会が行われている。その衆は、頼兼(証遍の孫で源師頼の孫園城寺の公胤頼伝法灌頂を受け、嘉禎四年に法印、建長六年には権僧正に進み同八年には園城寺別当になる)、審範(明季法橋の男。熱田大宮司藤原季範の曽孫)、房源(未詳)、兼伊(未詳。新阿弥陀堂の僧、あるいは藤原清通の男で仁和寺の僧か)、頼乗(未詳。宮内卿法印と称す)、定円(藤原光俊の男。中納言律師と称す。)、経幸(備中已講と称す)、範快(未詳)であった。

 六月十五日、北条泰時の十三回忌供養をその墳墓粟船の御塔で供養が行われた。導師信濃僧正道禅(藤原忠嗣の男)による真言供養であった。請僧の中に定円、経幸、蔵人阿闍梨長信(未詳)がいたと、子の追善の後八講のためにわざわざ京都から招かれたと記されている。

 

 十月六日、時頼に女子が誕生し、北条重時の妻室・松下禅尼・時頼らが群集して、禄持つなどが行われ、歓喜に満ちたようであった。しかし、康元元年(1256)十月九日に『吾妻鏡』に「同日、相国(北条時頼)の御息女が死去しという」のみ記載されており、死因などの詳細は記載されていない。享年三歳である。

幕府は従来の式目の法解釈や式目の追加法を順次行っており、その中で西国の堺相論について審議が行われている、全て本所(開発領主から寄進を受けた荘園領主を領家とし、また領家から更に寄進を受けた院宮家・摂関家・大寺社の本家のうち、荘務を行う権限、則ち庄園の実効支配権を有した者を言う)が御成敗されるべきであるため、訴訟があっても対決にはおよばない。その中で、どちらも関東御領である場合は、当然処置を行うように六波羅に命じている。また朝廷から六波羅に命じられる検断について、その審議が行われ、以下のように御教書を遣わしている。

「武士所々に差し遣わされている事について、

御成敗の後に御下地に従わず廊贅を働いている場合は(派遣しても)問題ない。まだ御成敗がなされていない時に、むやみに差し遣わされる場合は、もちろん事情を上申し、重ねて命令を仰ぐように。また人身売買については、延応の宣下(延応元年五月六日の鎌倉幕府追加法一一五。『人身売買事』『綸旨に任せて停止』)の状を守り、すべて禁止するように」。

 同年十月月十日には、保奉行に法令の励行を命じており、また幕府の下級職員の鎌倉での騎馬の禁止、次に押買い以下の禁止を命じている。同月十七日、薪炭等の価格統制の廃しを命じている。この法令は、建長五年(1253)十月十一日に、薪炭等の価格を定めたが、炭・薪・萱・藁・糠について高騰が著しく、諸人の煩いとなっているために低い価格を定められたが、今後は価格統制を行わないとしている。『吾妻鏡』においては今回の元のように売買に許すとしているのみで、改正に踏み切った内容が定かではないが、商人の訴訟、あるいは安価設定により一層の供給不足が起こったのではないかとも考えられる。

 

 十一月十六日に御家人の最大有力者の一人であった足利義氏の病気が危篤状態になったため北条時頼は邸宅に向かい見舞った。そして同月二十一日に正四位下行左馬守源朝臣(足利)義氏が死去する。年は未詳である。建長六年が過ぎるが、建長七年の『吾妻鏡』の記載が欠落しており、この年の二月二十一日、建長寺梵鐘を選任に勧請し。鋳造しており、現在国法として存在している。  ―続く