建長四年(1252)十一月二十五日、北条時頼開基の建長寺の落成供養が行われた。開山は蘭渓道隆で、山号寺号を巨福山建長興国禅寺と称す。建長寺は、中国・南宋の禅宗寺院を模し、日本での禅宗専門寺院の初めとされる。北条時頼が禅宗を知ったのは、宝治合戦後のその年、宝治元年(1247)八月に曹洞禅の道元が、鎌倉を訪れ、北条時頼に合ったとされる事がきっかけであったと考えられる。『吾妻鏡』には、この記載がないが、道元禅師の法語を弟子が編纂した『永平道元和尚広録』、永平寺末寺の越前宝慶寺『宝慶寺文書』、『鎌倉遺文』二〇二六六号で知ることが出来る。
(蘭渓道隆像 北条時頼像)
北条時頼が、兄の四代執権北条経時からの執権職の継承と、その遺児に対しての対応や三浦氏滅亡に導いた事は、自身の憎悪と嫌悪を導いたのかも知らない。その後は、執権でありながら仏教への信仰をむさぼるように行っている。私見であるが、宝治合戦への対応は、優柔不断な面もあり、後世に批判が集中している。また精神的にも弱さを感じ、従来の国家鎮護を目的とした仏教では解消できず、他の宗教を模索していたのかもしれない。そしてその中で、ただひたすら坐禅の修行を行う事の「只管打坐」で、悟りを開く禅宗に魅かれたのかもしれない。鎌倉新仏教の発生で浄土信仰による専修念仏を教義とする浄土宗・浄土真宗では、ただ念仏を行う事で極楽往生の救済を信じ切れなかったのかもしれない。武士が犯した罪行は、多くの人の命を奪うなど、一般の庶民に及ぶものではなかった。後に時頼の嫡子・時宗は、臨済禅の円覚寺を創建し、連署北条重時は京の六波羅探題時から専修念仏を中心とする浄土信仰を重んじていたが、重時没後に故・長時、業時が文永四年(1267)に忍性を入寺させて、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院として開山している。極楽寺流北条氏が自信を律し、修行及び戒める戒律を教義とする真言律宗に身を委ねているのは、その事を物語っているのかもしれない。当時の天台・南都・真言の仏教においては、国家鎮護を目的とし、庶民への教義はなかった。鎌倉新仏教は、あらゆる者に極楽往生の救済のための専修念仏の協議を知らしめ、後に庶民の葬儀に必要な存在として認識されていった。
中国での仏教は禅宗が広まり、寛元四年(1246)には、蘭渓道隆は中国南宋から来日する。『元享釈書』、『蘭渓和尚行実』によると、蘭渓はかねてより日本では禅がまだ普及していない事を聞いて布教の意思・志を持っていた。そして、蘭渓が三十四歳の時に商船に乗り、弟子とともに来日したという。来日した蘭渓は、博多の円覚寺にしばらく滞在する。その後に蘭渓は博多から京都の泉涌寺来迎院に移った。『本朝高僧殿』によると、来迎院主の月翁智鏡(げっとうちきょう:明観智行)が、宋に渡っている時に蘭渓と旧知となった縁によるとされる。『元享釈書』、『建長寺和漢年代記』に、蘭渓は月翁の勧めで鎌倉に行き、寿福寺に入つたと記される。
宝治二年十二月に、『大覚禅師語録 巻上』、『元享釈書』によると蘭渓道隆が鎌倉に来て、寿福寺滞在を聞いた北条時頼は、蘭渓道隆を粟船の常楽寺の住持に迎えたと記される。常楽寺は『吾妻鏡』嘉禎三年十二月十三日条で、北条泰時が妻の母の菩提を弔うために退耕行勇を開山に建てられ立てられた。『鎌倉市史 社寺編』では密教と浄土宗を兼ねた寺院であったと見られる。『大日本史料 第五編』によれば、宝治二年三月二十一日付の常楽寺鐘名に、この寺に北条泰時の墳墓のある寺であり、「坐禅の空間を催すに足るとあって、蘭渓か住持する時には、すでに禅院としての性格を備えていた事が分かる。北条時頼は前年に道元と面会しており、禅の教えを受けたとされ、禅に興味を持った時頼が禅の本場の南宋から渡ってきた蘭渓に本格的な禅の教えを学ぼうとして、厚く保護したようである。建長元年四月八日のものと推定される法語『大覚禅師語録』に「大旦那(時頼)は自己のすべてを傾けて道徳を実行し、忠心から国政を行っている。本来菩薩の身でありながら人間界に現れ、身分の高い者として大権を掌握している。世を救おうとする思いは海のように深く、民を養おうとする心は山のように固い。仏教を厚く敬い、皇室を長く保とうとする」と述べている。
建長元年に北条時頼は、鎌倉に禅宗専門寺院の建立に着手した。創建前のこの地は、地獄谷と言われ、犯罪人の処刑地であり、それらを弔うために心平寺という寺があり、その寺は後に廃寺となって地蔵堂だけが残されていた。北条時頼はこの谷を開き禅寺の創建を計画する。建長元年に地蔵堂を小袋坂(巨福呂坂)に移し、やがて地蔵堂も配され、本尊の地蔵菩薩だけが建長寺に安置された。禅宗の本尊は釈迦如来とされるが、建長寺地蔵菩薩を本尊としている。地蔵菩薩は菩薩の一尊で、釈迦が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代の衆生を救済する事から委ねられたとされる。浄土信仰が普及して来たこの時代、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、かならず地獄へ落ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦しみからの救済を欣求するようになった。その姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅などの六堂を巡りながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とさる。武士が犯した罪行は、多くの人の命を奪うなど、一般の庶民に及ぶものではなかった。念仏宗にその救いを求めることは、それら罪状に叶わないとして、北条時頼は、禅に求める坐禅の修行により、対価として自身の救済を禅宗と地蔵菩薩に求めたのかもしれない。
川添昭二氏の「鎌倉仏教と中国仏教」において、蘭渓の時頼に対する教えの基本は、「仏法は、実生活を離れたところにあるのではない」というものであり、政務に多忙な者にも受け入れやすく、また右に見たように蘭渓には、「褒め上手」なところもあった。時頼は蘭渓との出会いによって、より禅に積極的に取り組もうとする気持ちを書きたてられたと考えている。しか、蘭渓は、建長寺に中国宋の禅院の方式をそのまま導入し、法語や規則を与えて厳格な禅封を起こした。『沙石集』の著者無住の『雑談集』巻第八にも『蘭渓は中国の僧で、建長寺での僧の作法を行ったため、天下に全員の作法が広まった。』と記しており、「時頼が建長寺を建立した事で、中国の僧も多数やって来て寺院はまるで中国のようになった。禅宗が盛んとなったのは、全て時頼のおかげである。だから時頼は、栄西の生まれ変わりだとも言われている」と記している。『沙石集』巻第十末には、「栄西が『興禅五国論」という書に『自分の没後五十年に禅宗を興す』と予言し、その後蘭渓が時頼を大旦那として建長寺は建立されて、初めて宋の禅宗寺院の規則を導入したのが、ちょうど栄西没後五十年にあたる。よって、時頼を栄西の生まれ変わりのように言うのである」と記している。実際には、建長寺官制の建長五年(1252)は、栄西の没した建保三年(1215)であるため三十九年であるが二人の出会いにより建長寺の創建と禅修の興起の決起となった事を強調した。
建長寺に所蔵される大覚禅師墨蹟『法語規則』や『大覚拾遺録』に納められている「法語」は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したもので、「規則」は行規の厳格を要求した。蘭渓は、寺内の禅僧たちに厳しい規則を用いて臨み、沐浴・坐禅・洗面の時間なども厳しく定め、許可のない私語は罰する等、生活の隅々まで及ぶ規則を定めて違反者には罰を科す物であった。卵形来日から没するまでの三十二年間において日本語を学ぶ事無く、始終中国語を話したという。大旦那に対しては「褒め上手」であったかもしれないが、自身の教義において衆僧に対しの厳しい修行を課していた。
蘭渓道隆が日本に来た寛元四年(1246)は、南宋軍とモンゴル軍が激戦を繰り返していた時期で、中国の戦火の状況も伝わっていたと考えられ、その情報収集もあったのではないかとも考えられるが、元寇の際には、元の密偵の嫌疑をかけられて甲州や奥州松島、伊豆国に移されている。後に嫌疑は晴れ、諸寺の侍従を経て再度鎌倉の建長寺に戻り弘安元年七月二十四日(1278)に同寺で没した。 ―続く