鎌倉散策 五代執権北条時頼 四十六、建長五年と撫民政策 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 鎌倉において北条時頼は、摂関家将軍を追放し、宮家将軍の宗尊親王を擁立した。一時的に将軍発病による政治形態に不安を残したが、宗尊の治癒により、新たに政策を進めて行く。『吾妻鏡』建長四年(1252)十一月十二日には、宗尊新皇下向後の近習御家人の出仕状況把握や出向供奉人の選定を行い、十一月四日の吉書始めの儀式においては、北条時頼・重時が新造された御所の政所で三献の儀を行っている。幕府の祈願は、関東の自治と安泰であり、朝廷を睨みつけながらも、敬意を抱く協調路線の存続であった。この日、宗尊の仮御所であった時頼邸から新造の御所への供奉の行列には、北条時頼は加わらず、あらかじめ新御所に待機している。宗尊入御の後に、吉書始めが行われ、執権時頼が吉書を御前に進めた。これは幕府の第一人者が時頼であることを示す重要な役割であり、将軍宗尊新皇―執権時頼・連署重時の時代が始まり、特にこの時期が最も鎌倉幕府が安定した時代であったと言える。そして、北条得宗体制が完成した。その権力基盤が、極楽寺流・連署の北条重時を始め、諸流北条氏の連携が確立した事によるものであった事は言うまでもない。

 

 建長四年(1252)十月十四日には人々の愁訴を案じるために、式目に条々が定められた。

一 牛馬盗人 ・人勾引(かどわかし)の事

この犯罪が三度になったら、妻子もその罪を逃れることはできない。

一 放火の事

 強盗に准じて禁止する。

一殺害・刃傷人の事

 本人だけを拘束し、父・母・妻子・親類・所従等については、罪を懸けてはならない。

一 窃盗の事

 小さな罪であっても両度になったら、一審の咎に準じる。

一 贓物(ぞうもつ:犯罪によって手に入れた財産)の事

五式目に従うべきであろう(御成敗式目第四条に、白状があっても臓物が無ければ処罰してはならない)。

一 諍論(じょうろん)の事

 土民の習俗として、つかみ合ったとしても傷が無ければ罪科に処してはならない。

一 山賊・海賊・強盗などの事

 先々の法に従って、条々の処置が行われるべきであろう。

一 他人の妻を密懐(みっかい:姦通)すること

 名手・百姓らの中で他人の妻を密壞することは、訴人があれば両方を召して証拠を調べて明らかに失せよ。名手は過料三十貫門、百姓は過料五貫文とする。女の罪過も同前(御成敗式目第三四条に諸罪の規定がある)。」

 

(鎌倉 白旗神社 源頼朝墓)

 軍事・警察権を有する御家人は、地頭を授かりながらも、実質現地で庶民を支配していたのは地頭の代官である地頭代であり、明らかに庶民の立場を守るための「撫民」の為の法令であった。その責務がより強く求められるようになり、「撫民」は幕府のこの時期の政策基調となっている。証拠を優先し、特に道理に沿った判決を求めている。

 九月十六日には、鎌倉中の所々で酒の販売を禁止するように保々の奉行に命じた。沽酒の禁止令である。鎌倉中の所々の民家で記された酒壺は、三万七千二百七十四口という。各戸酒壺が自家用に一つだけ認められ、残りはすべて打ち壊された。また諸国での販売も全て禁止するという。

 同年十一月九日には、新造御所が出来て、鶴岡別当僧正隆弁により、新宅の家屋に移住する際に行われる家宅鎮護の修法の鎮宅法が行われた。北条時頼・重時が新御所・政所の完成に伴い祝いの儀式を行う、三日後の十一日に将軍・宗尊は、新造の御所に入っている。

 同月十三日、御家人等の奉功について毎日調査し、御家人勤務評定を行うとし、その勤否によっての処置を行うと命じた。勤務評価による報奨の供与である。また、新造の御所において、新邸に際して、さまざまな儀式が行われている。

 同年十二月に入り将軍宗尊は、再び病気を患っている。病気の名残りがある中、年の師走の儀礼を行い、建長四年は過ぎて行った。

  

 年が明け建長五年(1253)が始まる。正月二十八日、北条重時の娘・葛西殿が北条時頼に嫁ぎ、正寿丸(時宗)に続き、次子・福寿丸(宗政)を産んだ。福寿丸の命名については、当時北条時頼が最も信頼した鶴岡別当法印隆弁が命名したとされる。福寿丸(宗政)は、後に兄・時宗を支えて元寇に対処するために築後守護に任じられ、弘安四年八月九日、弘安の役で勝利に沸く中、享年二十九歳で早去した。宗政の子・師時は時宗の猶子となり、時宗の嫡子・貞時の義兄弟として貞時を補佐することになる。これは、三代執権・北条泰時は、異母弟の金沢北条氏の実泰が二十七歳で出家したため、家督をついだ実時が、泰時の孫・経時と同年齢であったため、得宗家を継ぐ経時の側近として両者の育成を図った。泰時は二人に対して、「両者相互に水魚の思いをなさるべし」と諫言を与えている。後に経時が早去し、弟の時頼が執権となると、時頼の補佐をも行った。また、八代執権となる時頼の子・時宗をも補佐している。これらが北条泰時の執政における教訓として、同年代の優秀な人材の両者を養育する事が為政者としての責務で有る事を継承したといえるだろう。金沢実時がこの年の二月に評定衆となっている。

 

(横浜市金沢区 称名寺)

 五月には安達義景が、喘息・脚気・不食などの病が重なったという。そして五月十三日に出家をし、法名を願智とした。六月三日秋田の定海従五位上藤原朝臣(安達)義景法師が死去した享年四十四歳であった。

八月には旱魃が続き雨請いの祈祷も行われた。また、近年類を見ない大地震があり、しばらくして小さな地震が十二度あったと『吾妻鏡』に記されているが、詳細は記されていない。中世の鎌倉期においては、この日本が大地震や干ばつに多く見舞われた時代であった。そして八月二十八日には、北条時頼に禅宗を講じたとされる、座禅本意の仏教を正伝とし釈尊の昔に帰れと説いた、曹洞禅の祖・道元が京都西洞院高辻で没した。享年五十四歳であった。北条時頼は、多くの仏教に帰依し、この後、鎌倉仏教が多くが成立して行く。 

 九月十六日に、幕府は関東御家人と鎌倉住人に新政発布され、新政を制定した。新制とは天変などを決起に社会的混乱を鎮めるために制定された新たな方であり、徳政の一環でもある。朝廷では宣旨により発布されるが鎌倉幕府も発布されるようになり、朝廷の公家新制に対し、関東新制と呼ばれた。

 

(鎌倉 鶴岡八幡宮裏 道元禅師顕彰碑)

 十月一日には、幕府が諸国地頭代に対し、沙汰すべき条項を指令した。当時の鎌倉幕府においては、この撫民の法の施行が基調となり、後の民情視察による諸国を廻る、「廻国伝説」が唱えられたのもこれらが要因であったと考えられる。そして、同月十一日に、薪炭等の価格を定め、おし買いについても固く禁じ、庶民の物価安定と治安にもつなげた。また鎌倉に在住する御家人の負担軽減にもつながったと考える。十一月二十五日、建長寺の落成供養が行われた。十二月二十八日に、現材木座の長勝寺東側の経師谷口から失火があり、北風が頻りに吹き炎は由比浜の御倉の前まで至り焼死者が十余人であったという。そして、この建長五年もあわただしく過ぎて行った。  ―続く