鎌倉散策 五代執権北条時頼 四十五、将軍家(宗尊)の発病 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 宗尊親王が鎌倉に着いた建長五年(1252)四月一日に、京都では親王に対して征夷大将軍に任命する宣旨が出された。

『吾妻鏡』建長五年四月五日条、「・・・晩になって六原(留守)の急使が(鎌倉に)到着した。これは将軍の案文を持って持参したのである。正文は来る十一日に請けられることになっており、官使の権少允は既に(京都を)進発するという。奥州(北条重時)・相州(北条時頼)が参会されて(案文を)見られた。そしてその官使の下向の饗禄について、先例を調べて処置するよう評議が行われたところ、建久の記録は明らかではないと出羽前司(二階堂)行義・民部大夫(太田)康連らがもうしたという。宣旨の文書は以下の通り。

 三品宗尊親王 右、左大臣(藤原兼平)の宣を承ったところ、「宗尊新皇を征夷大将軍とする」(とのことである)。

 建長四年四月一日                大外記中原朝臣師兼 奉(うけたまわる)」。

 

(京都御所 紫宸殿)

 同月十四日には、新将軍の宗尊が初めて鶴岡八幡宮に参詣し、前陰陽権大允(安倍)晴茂朝臣〔束帯〕が反閉(へんぱい)に祗候し、花山院中将(藤原)長雅朝臣が陪膳に祗候した。尾張前司(名越)時章朝臣が役送であり、(宗尊が)出かけられ〔御輿〕、相州(北条時頼)〔帯剣の侍四十人を連れ〕供奉している。宗尊親王が将軍に就くと、執権・連署の奉じる裁許下知状の書き止め文言が従来の『鎌倉殿仰せに依り、下知件如し」から「将軍家仰せに依り、下知件如し」へと変化している。『吾妻鏡』四月十四日条による、北条重時らが供奉する将軍家(宗尊の)鶴岡参詣に対し、出発直前に随兵を召し具す事を止め、北条実時と三浦光盛は鎧を布衣に改めて供奉した。これは親王行啓においては、頼朝から頼嗣時代までの「将軍威儀を糺す」ための「勇士」の供奉は必要が無いと説明しており、新皇将軍はその出自を皇子であり、高貴な存在であるため、「部位」により御家人を統率する「部王」=「鎌倉殿」である必要が無くなったとしている。また、その地位を征夷大将軍=「将軍」という、朝廷からの任命される幕府職制上最高位の官職の方が「鎌倉殿」よりもふさわしくなった。宗尊の将軍に就き、将軍の権威も上昇したがその一方で権力は摂関家将軍以上に実体のないものとなっていった。その後、政所初めや、御所での蹴鞠始め等の新将軍に対しての決まり事を定めるなどし、あわただしくその月が進められていった。

 

(鎌倉 甘縄安達盛長邸跡 甘縄神社)

 新将軍の御所は、同月二十一日に評議され新造が決められていたようであるが、前将軍・九条頼嗣の旧御所については、同二十九日に陰陽師を招き審議し、壊される事に憚りは無いと破却が決められている。六月二日には、新造の御所の事始めが行われた。

四月三十日、引付を三方から二方を加えて五方とする。一方一番七人の計三十五名とされる。度重なる引付の改革は、停滞する訴訟の迅速化が求められたのであろう。しかし、この体制での評定と五方の引付始が行われたのは同年六月二日であった。

 将軍宗尊は、同年三月十九日に京都を出て、新天地である鎌倉に同年四月一日に到着し、諸事をこなされたが、当時の年齢において十三歳である。本来、仁治三年十一月二十二日の誕生であるため、実際の現在の年齢で言うと十一歳であった。都で過ごした親王は、この四月から 関東の武士を擁する鎌倉での生活と将軍としての環境の変化は、重圧と重責であったと考えられる。

 六月十六日には、『吾妻鏡』、「将軍家(宗尊)がいささか病気になられた」とある。鎌倉では、日照りが何日も続き、祈禱と恩赦が行われた。恩赦の対象は数十人におよんだという。将軍家(宗尊)が関東に下向し、天下泰平・関東静謐であるが旱魃の一事が庶民の愁歎となっており、北条時頼は同月十九日に、鶴岡別当法印隆弁に祈禱を懇請している。そして二十日の日に雨が降った。二十三日の夜半から甚だしく雨が降り、二十日から昨日に至るまで連日雨が降ったため、隆弁に御馬・御剣が送られている。

 

(鎌倉 甘縄神社)

 同年七月四日に、秋田城介(安達)義景の妻室が女子を安産した。後に義景の死後は兄の泰盛の養女となり北条時宗の妻室となる堀内殿であった。前月の二十三日に恵みの雨が降った後、また日照りが数日続き、祈雨について長勝寿院・永福寺・明王院に祈雨の祈祷を命じた。八日の日に少し雨が降った。しかし、関東近国は日照りが続き、青い根はことごとく黄色く枯れ、庶民に嘆かない者はいなかった。そこで北条時頼は隆弁に命じて祈雨の祈祷を命じる。鶴岡八幡宮の宝前で諸神供を行い、管絃等が行われた。また、隆弁は瑞垣の中に自ら最勝王経を講じ、その後まもなく雨が降ったという。

 同年八月五日に将軍家(宗尊)が少々病気で、医師(丹波)忠茂朝臣・(丹波)広長・(丹波)長世らが参候して治療について評議した。『吾妻鏡』において詳細な病状の記載は無いが、病状はかなり重いようであったと見られる。祈禱・治療の評議が行われ、七日の日に再び法印隆弁が御所中で初夜(午後八時頃)から千手観音を本尊として除病・病気平癒の祈祷である先手法・信読大般若経を始めた。十日の日に、将軍家(宗尊)の病気が少々回復し、御粥を召し上げられた。十三日には微熱が下がり御前を召しあがるほど回復した事で人々は安堵したという。しかし、全快とはいかずに放生会などの祭祀の欠席が続く。八月十七日に深沢の里で、金銅の八丈釈迦如来像の鍛造を始めたという。鎌倉大仏の鋳造開始であるが、現存の鎌倉大仏は阿弥陀如来である

 

 『吾妻鏡』建長四年(1252)八月二十二日条、「法印隆弁が御祈禱の道場で一睡の間に霊夢を見たと、相州(北条時頼)が御所(宗尊)に言上されたという。小童二人〔。それぞれ唐の装束を着て、その姿は獅子の様であった〕が赤い顔に青い衣で御所の南面の唐墻(からかき:唐風に作った垣根)から退いたという。将軍家(宗尊)もまた御夢想があったという。童二人が宗尊を追いかけた。そうしたところ両童は転経(経文を読む)の声を聴くとたちまち逃げ去ったという」。

 翌二十三日に、宗尊の病気による四角四鏡祭(しかくしきょうさい:四隅と四境で危機の侵入を防ぎ、追い払う陰陽道の祭祀)・鬼気祭がおこなわれた。翌二十三日に夏が全く下がり、気分も回復してたいそう具合が良いと言われ回復された。翌二十五日には、御祈禱の為御剣・御馬を二所・三島社に奉納されたうえ、その三社で大般若経を転読し、御神楽を行うように命じられた。また二十六日には、前備前守従五位以下平朝臣(名越)時長が死去している。

 

 九月一日には、将軍家(宗尊)が病気平癒の後、御手足を洗われた。翌日には(宗尊の)、病気平癒の事を京都に申された。同月四日には、先手法・信読大般若経が結願したという。幕府にとっては、親王宗尊が鎌倉に下向して間もなく、旱魃による世情と病気により死去したならば、関東下向が忌み嫌われる事が予測され、死去の責任問題と発展し、朝廷との関係は複雑化する事は目に見えていた。関東安泰と北条得宗家を守る北条時頼にとっては、将軍家(宗尊の)回復は安堵の一言であった。そして、九月二十五日、鶴岡八幡宮大仁会が行われ、将軍家(宗尊の)もその行事に参詣している。  ―続く