鎌倉散策 五代執権北条時頼 四十四、親王将軍 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 建長四年(1252)正月の行事か何時ものように行われるが、『吾妻鏡』に奇妙な出来事が記されている。『吾妻鏡』において、この様な奇妙な事象が記された後には、常に何かが起こる前提である。

 正月十一日条、「酉の刻(午後六時頃)に雷鳴が一度あった。今日、鶴岡(八幡宮)の若宮で供養の飯が二つに割れ、また三百余枚積んであったという餅が転がり落ちた。次に同じく御殿と舞殿の間の樋の中で鵄(とび)が一羽死んでいた。この他、大慈寺の前の川で鵄が二十一羽親死んでいた」。

 同月十一日条、「今夜、犬の刻(午後八時頃)に珍事があった。これは刑部僧正長厳の霊が十三歳の少女〔伊勢前司(二階堂行綱)の郎党の娘〕に憑いて承久の年のことを話ったという。その少女は急に気がふれ、長能僧都に対面したいと望んだため、その母は押し留めることが出来ず、止むを得ず同じ輿に乗って長能の大倉の房に赴いた。道中で少女は輿から僧都の家の中に駆け込んだ。長能が対面したところ、昔のことを試みた。少女が言った。「隠岐法皇(後鳥羽)の御使者として先ごろから関東に下向し、このところ相州(北条時頼)の邸宅に住んでいた。そうしたところ隆弁法印がその邸宅に祗候して読経しているため、護法天(仏法を護る天。四天王・八法天・十二神将など。護法善神)らの柱杖でその類は追い出された。今となっては帰洛して院御所に申してから、来年再び(鎌倉に)下向する。現在は荏柄の後ろの山にいるため、この女に目を付けた。今更ながら不思議である」。言葉が終わって(少女は)気を失い、時が経って急に蘇生したものの、心身は惘然としていたという」。

 

(鎌倉 白旗神社 源頼朝墓)

 同月十三日条、「右大将家(源頼朝)の法華堂で恒例の仏事が行われた。そして工藤三郎右衛門尉光泰が奉行として参堂した。次いで昨夜の天狗の霊託について、帰参してから(北条時頼)に申したところ、その少女の母を召出して尋ねられたため、詳しく申し上げた。今改めて(隆弁の)法験を信仰されたという」。

 同二十七日条、「未の刻(午後二時頃)に海浜の波の色が紅のようになった。中でも由比浦から和賀江島に至るまでがこのようになり、人々が怪しんだ。そこで御占いが行われたところ、吉事という」。

 同年二月一日条、「巳の一点(午前九時頃)に日蝕が三分正現した」。

同月十二日条、「関東の安全の祈祷として、相州(北条時頼)の御邸宅で如意輪法(一切の願いを成就させるという如意輪観音を本尊として行う祈禱)が行われたという」。幕府・関東の平安を祈願して、二十日に新たな局面が始動した。宗尊親王を将軍とする事が決められ、使者を京へ派遣する。

 

 同月二十日条、「泉前司(二階堂)行方・武藤左衛門尉影頼が使節として上洛した。これは奥州(北条重時)・相州北条時頼)が、当将軍(藤原頼嗣)が将軍としての地位を辞退され、上皇(後嵯峨)の第一・第三の宮(宗尊・恒人)のいずれかが(鎌倉に)下向されるよう申請されるためである。その文書は相州(北条時頼)が自筆でし、奥州(北条重時)が加判された。他人はこの事を知らなかったと言う」。藤原頼嗣はこの時、十四歳であった。この将軍交替は、北条時頼と北条重時が、また寄合いの記載は無いが、ごく少人数で秘密裏に決定された事項であると考えられ、健保七年三代将軍・源実朝が暗殺され、子がいなかった実朝に次いで将軍として後鳥羽院に親王将軍を要請した幕府であったが、後鳥羽院が了承せず、摂関家九条道家の子・二歳になる三寅(九条頼経)が下向した。幕府にとっては、寛元四年の政変(宮騒動)などから、将軍が成人して政治的権力を掌握する前に幼少将軍に継承させることを検討し、頼経を京都に送還して、その子・頼嗣を将軍に据える。しかし、幕府転覆の画策として「建長の政変」の首謀者であった了行法師(原忠常の男で千葉氏の一族。藤原頼経・頼嗣の実家九条家との関係が深かった)・矢作左衛門尉(常胤:千葉氏の一族で矢作常義の男。千葉介頼胤の近親)・長次郎左衛門尉久連(長氏の一族)が捕縛され、事件を終焉させたが、このまま摂関家を留め置く事が幕府にとっては再度の危険性を持つ事を理解した。摂関家将軍に継ぐものとしては、本来幕府が願っていた新皇将軍であり、その要請に動いたのである。

 

(京都御所)

 後嵯峨上皇においては、四条天皇の急死により、土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨)と順徳天皇皇子・忠成王の二人が候補として挙げられた。両者とも後鳥羽院の孫にあたり、他に新天皇としてなりうる者がいなかったのである。九条道家と西園寺公経は共に忠成王を推挙した。これは道家の姉の東一条院立子が、かつて順徳の中宮であったためである。本来天皇につく事も無く二十三歳で元服もせず出家を待っていた邦仁王、後の後嵯峨天皇であるが、北条泰時は邦仁王を天皇に押した。邦仁王は土御門徐行の皇子であるが、土御門上皇は、承久の乱において、父後鳥羽上皇の討幕にかかわらず、むしろ討幕には反対していたとされる。その為に幕府は邦仁王を擁立した。その際に邦仁王の後ろ盾となる者は、自身の母・源通子の兄・源定道であったが、当時の六波羅探題を就いていた北条泰時の異母弟の重時が最も信頼できる後ろ盾であった。

同月二十一日に、了行らの捕縛により幕府転覆計画が発覚し、九条道家・頼経が首謀者の嫌疑が掛かり、道家は失意のなか享年六十歳で死去した。度重なる画策において、朝廷内での自身の権威を保守し続けたが、最期には、策士・索に溺れた者であった。

 

(後嵯峨天皇像、四条天皇像『天使摂関御影』)

 『吾妻鏡』建長四年(1252)三月五日条、「辰の刻(午前八時頃)に京都の急使が関東に到着した。これは先日上洛した使節である和泉前司(二階堂)行方・武藤左衛門尉景頼に基づき、宮の御下向について去る一日から仙洞で何度も審議が行われ、殿下(藤原兼経)が毎度参られていた。ただし三歳の宮(恒仁)〔母は准后(藤原姞子)〕と十三歳の宮(宗尊)〔母は大納言二品(平棟子)〕の両所の内、どちらの御方が下向されるべきか尋ねられたため、両六波羅(六波羅探題北方・南方)から急ぎ申してきたのである。奥州(北条重時)・相州(北条時頼)らが会合し、群議を経て、十三歳の宮が下向されるよう申された。そこでこの日の申の刻(午後四時頃)になって急使は帰洛した」。

 三月六日条、「藤次左衛門尉泰経が御使者として上洛した。今日までの行程は七日間という。これは宮(宗尊)の御下向の間の条々について、六波羅の大夫将監(北条)長時朝臣に命じられるためである。長時としかるべき在京人らが(宗尊に)供奉するようにという」。藤次左衛門尉泰経は北条重時の被官であり、嫡子・長時と詳細に打ち合わせが必要であった。本来ならば、執権から六波羅探題という職務的統属関係で遂行されるが、長期に置いて六波羅探題の重時とその嫡子長時との詳細な打ち合わせが必要で、下向に対しての諸事については、後嵯峨上皇の信頼が高い重時主導で進められたことが窺える。

 

(九条道家像『天子摂関御影』、九条頼経像『集古十種)

 三月十六日には、鎌倉で宗尊新皇下向を祈願した。三月十七日、院御所において宗尊親王下向が決定する。十八日には、宗尊新皇へ関東下向の勅授の宣下がおこなわれ、三月十九日に宗尊新皇は、鎌倉に向けて京都を出発した。そして四月一日、宗尊新皇が鎌倉に到着し、北条時頼・重時ら関東の武士に大きな歓迎を受けて、将軍に補される。そんな中、四月三日に前将軍の藤原頼嗣が、ひっそりと慌てるように京都に向かって鎌倉を出た。  ―続く