正嘉二年(1258)正月には、埦飯が相州禅室(道崇、時頼)、奥州禅門(北条重時)、北条正村の差配で行われた。そして二日の埦飯後に将軍家(宗尊)が御行初を行い、相州禅室の(道崇、時頼)の邸宅に出かけており、依然として鎌倉における北条時頼が最高権力者の地位にあった事と、幕府内での序列を示している。その中、昨年八月に起こった大地震に因る寺社等の損傷について、勝長寿院の再建が進んでいた。正月二十日に勝長寿院の御塔が、元の位置を改め、東山の(現、大見堂ヶ谷の東側の丘陵)麓をその場所とし、二十一日に礎石を据えている。四月に三重塔など棟上げが行われ、五月に勝長寿院供養につき導師等が決定された。六月、勝長寿院の供養が行われ、密かに宗尊臨席している。
同年正月十七日に、安達泰盛邸より失火、寿福寺などが類焼した。鎌倉の甘縄の安達邸から、火は薬師堂の後ろの山を越えて寿福寺に至った。南風が激しく吹き、延焼した範囲が多く、東は若宮大路付近まで及び、かなりの大火であったと考えられる。
同月二十七日には、将軍家(宗尊)が特別の御願により、二所神宮(勢神宮内宮・外宮に)に御剣を奉納した。その御願とは、災害に見舞われる鎌倉の安寧を願うものであったかは定かではない。
二月なると、五種行が行われ、十九日の日に結願した。普賢菩薩と法華経二部が供養され、その一部は、聖霊(北条経時)遺した手紙を漉返し、経文の料紙としている。北条経時の十三回忌は三月二十三日に佐々目谷で塔婆が供養された。
同月二十八日に、将軍家(宗尊)の来年の上洛につき評議が行われ、その旨を承知するように諸国御家人等に伝えられている。十三歳で鎌倉に下向し、将軍となった宗尊は十九歳になっていた。
(鎌倉 甘縄神社 寿福寺)
四月十七日、京都の使者が、延暦寺の僧侶が日吉社の神輿三基が内裏外廊の北側の正面にある朔平門の陣の口で振り、強訴を奉じる。警護の者が諸門を閉ざしたため、御正体を取り、築垣の中に投げ入れられた。これは園城寺の戒壇について、勅許されるだろうとよるものであった。その知らせが同月二十一日に急使として鎌倉に到着している。五月六日に、去る一日に日吉社の神輿が本社に帰還したとの知らせが入った。大乗戒壇とは大乗戒を受けるための作法を行う場所を指すもので、奈良時代には、朝廷が許可した奈良東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺の三戒壇で受戒しなくてはならなかった。延暦寺は最澄により、天長四年(827)に大乗戒が創建され、畿内での寺格を高め、その特権を有している。この強訴は正嘉元年(1257)三月二十七日に、園城寺が大乗戒壇の建立許可を求めて朝廷に強訴を行った事にあり、承元元年(1259)九月十四日には、園城寺出身の鎌倉の鶴岡八幡宮寺別当で北条時頼の御持僧を勤める隆弁に上洛してもらい、朝廷との大乗戒壇の建立許可の交渉を委ねようとした。この交渉は北条時頼と幕府の後ろ盾があり、翌承元二年(1260)一月四日に大乗戒壇の建立が許されている。しかし、延暦寺の猛烈な抗議により同月二十日に建立許可が取り消された。その後も焼き討ちなどの抗争が始まり、室町期に入るまでこの抗争は続くのである。
同年五月九日には、宗尊の上洛に伴い、先例にしたがい六波羅の御所の新造営を決定し、その費用が諸国地頭・御家人等に割り当てられることを命じている。しかし、同年八月二十八日に諸国の凶作により宗尊の上洛延期が決定されていた。
同月十日、鎌倉中や国々の雑人の裁判につき法を定められた。これは主人や在所の地頭に命じるものであり、その事書きの書きようは以下の通りである。
「一、 鎌倉中や国々の雑人の裁判について
奉行人の奉書に三度にわたって従わなければ、御教書に出される。またその御教書が三度に及んでも実行されなければ、引付で事情を調査し、事実であれば、所領を注進するよう御教書が出される。次に、難しい事態については、同じく引付で審議が行われる。」との事であった。
七月に、質入れ所領につき定める。「名を明記し質入れした所領について、その所領を知行して(手質入れし)他ものがその弁財をすべきであろうと定められた。泉又太郎蔵人義信と安房四郎頼綱とが相論していると下野国栃木郷については頼綱が栃木郷を質入れしたために、既に給人付けられてしまっていた。そこで慣例に従い、一倍(今でいう二倍)を加えて、百貫文の銭を速やかに頼綱が義信に渡すよう命じられている。『中世法制資料集』一、鎌倉追加法一三九において御恩として与えられた所領を質入れし、偏在した額が半分に満たない場合、その所領は他の者に与えるとされていた。北条時頼の執権時以降に、武功を唱える恩賞なき時代に入り、御家人の生活は窮迫していく。御家人が身の丈の合う生活を送るならば、それ成りの生活が出来たが、特に武芸以外の芸事や衣服の装飾などがそれを上回る浪費となっていた。後に悪党の存在に拍車が罹る事になっていく。
同年六月から、長雨が続き、八月十日には大型台風に見舞わられ、暴風雨により諸国の田園が損亡して全国的に大凶作となる。この年の冬から翌正元元年の夏にかけて凶作が続き全国的な飢饉が拡大していった。
同月十九日に、去る七日、後深草天皇の弟・十歳の恒仁親王、後の亀山天皇の立太子の報が、鎌倉に至る。御嵯峨天皇の皇子で母は中宮・西園寺姞子で、父母が恒仁親王を寵愛し、後に後深草天皇から皇位を譲られた。北朝Ⅷ持明院統)勝今日の皇室の祖であり、不満を抱きながら皇位を譲渡した後深草天皇の南朝(大覚寺統)による対立が生じる端緒となっている。
八月二十日条、出羽・陸奥両国に夜討ち・強盗が蜂起しているとの風聞により、地頭に鎮圧を命じている。その御教書の文面は、「近日、出羽・陸奥で夜討ち・強盗が蜂起しているため、往還の者も煩いがあるとの風聞がある。たいそう不都合な事である。これはすべて、郡郷の地頭らが、以前の御下地に背いて、処置をしていないためである。極めて不当な事である。速やかにその群や知行している宿々に建物を建てて(人々を)結番し、特に警備をするように。さらに『悪党を匿っている所々を見てみぬふりをしたり、聞いて聞かぬふりを致しません』との沙汰人らの起請文を取って提出されるよう、仰せによりこの通り伝える。正嘉二年八月二十日 武蔵守(北条長時) 相模守(北条正村)」。建長八年(1256)の『吾妻鏡』建長八年六月二日条をふまえて、あらためて発布された。凶作が続く中幕府は治安安定の強化に努めなければならなく、九月二十一日には、本来は幕府の管轄外であった本所一円地であっても、守護の命に背き悪党を隠匿する場合は処罰すると定めた。これは幕府の検断政策の大きな画期となる物であった。
九月、諸国の悪党が蜂起しているとの風聞があったため警備を命じている。この御教書は守護人に下され、「実際の罪を犯した者はその身柄を(鎌倉に)進めるように。また権問勢家の所領であっても、守護人の命令に背いて悪党を匿ったならば、進中するように。その処罰が行われる」と記している。
同年十月十二日、嘉禄元年より仁治三年までの判決は改めない事とした。従来幕府の判決は前例に基づき決定されており、『御成敗式目』七条においても源頼朝・頼家・実朝の三代将軍及び北条政子の時代の判決に準じて、再審・改変を行わないと定められていたが、政子以降の判決が、摂関将軍藤原頼経・頼嗣時代の判決としてではなく、北条泰時の執権在任中の判決として確定された。これ以降、幕府の判決の確定化(不易化)は、執権、さらには得宗の交替を基準とするようになり、幕府における時間区分の変化が権力の所在の変化と連動していった。この正嘉二年の不易化は、『吾妻鏡』では十月十二日と記されているが、『中世法制史料集』「第一巻鎌倉幕府法」において実際には十二月十日の事とされ、『吾妻鏡』の編纂時の錯誤と考えられる。
十二月、主従敵対は理非にかかわらず裁定しないと定める。終盤の後世や出仕・宿直の期日などを記した帳簿である諸方の番帳を清書された。貨幣経済が進む中、人々の価値観も変わり、諸所で悪党などの蜂起が目立ち始め、後に御家人から悪党に変貌していくことになる。幕府はそれらの対策を打ちながら、中世法制鎌倉追加法を加えて得宗家の専制政治形態を進めて行くのである。 ―続く