鎌倉散策 『徒然草』第二百三十段から第二百三十三段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第二百三十段 、未練の狐

 五条内裏には妖物(ばけもの)ありけり。藤(とう)大納言殿語られ侍りしは、殿上人ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾を掲げて見るものあり。「誰そ」と見向きたれば、狐、人のやうにつゐて、さしのぞきたるを、「あれ狐よ」ととよまれて、まどひ逃げにけり。未練の狐、ばけ損じけるにこそ。

 

現代語訳

 「五条の内裏(京都五条の北、大宮の東にあった亀山天皇の皇居。文永七年〔1270〕八月焼亡)には化け物が住んでいた。藤大納言殿(藤原為世。為氏の子で兼好の和歌の師)が語られるのは、殿上人達が、黒戸(「黒戸の御所」の略。清涼殿の北廂から弘徽殿(こうきでん)に渡る廊)にて碁を打っていると、御簾を掲げてみる者がいた。「誰だ」と見向くと、狐が人の様にひざまずいて、覗いているのを見て、「あれは狐だ」と大声で騒がれて、戸惑って逃げってしまった。未熟な狐は、ばけ損なったのであろう。」。

 

第二百三十一段 百日の鯉

 園の別当入道は、さうなき庖丁者(ほうちやうじや)なり。ある人のもとにて、いみじき鯉を出だしたりければ、みな人、別当の入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかがとためらひけるを、別当入道さる人にて、「この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠けき侍るべきにあらず。まげて申し請けん」」と切られける、いみじくつきづきしく、興ありて、人ども思へりけると、ある人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、おのれはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給(た)べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。なでふ百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし。をかしく覚えしと、人の語り給ひける、いとをかし。

 大方、ふるまひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、まさりたる事なり。客人(まれびと)饗応(きやうおう)なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、ただ、その事なくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉わらん」といひたる、まことの志なり。惜しむ由(よし)して請はれんと思ひ、勝負の負けわざにことつけなどしたる、むつかし。

 

現代語訳

 「園の別当入道(藤原基氏。権中納言持明院基家〔道長の次男頼宗の子孫〕の三男で、その姉に後堀川天皇の生母北白河院棟子がいる。園家の始祖)は、比類のない、魚鳥類の料理人であった。見事な鯉を(客の前に)出したならば、皆が、別当入道の料理ぶりを見たいと思っても、軽々しく言い出すのもと、どうかとためらっていると、別当入道は心得た人で「このごろ、百日の鯉(料理の稽古のために百日間、毎日鯉を切る)をさばくのを、今日一日だけ止めるわけにはまいりません。是非ともその鯉を頂戴しましょう」と言って切られた。大変その場に似つかわしく、興ある事に、人々が思われると、ある人が、北山太政入道殿(西園寺兼実。基氏の没した弘安五年には、権大納言で三十四歳であった)にお話しされれば、「このような事は、自分には実に煩わしく思える『しかと料理が出来る人が居ないのなら、私にお渡しください。切るだろう』と言うならば、なお良いだろう。何故百日の鯉を切ろうなどと言う必要があろうか」と言われた。おかしく思えて、ある人が私にお話しくださったがまことに興味深い事である。

 だいたい、わざわざ趣向をこらして面白くするよりも興がなく穏やかで素直なのが、良い事である。客人に御馳走をするにしても、その時宣にかなうように面白く取り成してするのも、実に良いが、ただ、それとなく持ち出したのが本当に良いと思われる。人に物を与えた場合でもこれと言うきっかけも無く「これを差し上げましょう」と言うと、本当の好意である。その品を愛惜しているようなそぶりをして、先方から所望されることを心中に願ったり思い、勝負事の負けた側の物が勝った側を御馳走する様な、嫌なものだ。

 ※酒宴の前に、料理の名手が人々の前で鯉などを料理して、包丁さばきを見せることが行われていた。

 

第二百三十二段 人は無知無能なるべきもの

 すべて、人は無知無能なるべきものなり。ある人の子の、見ざまなどあしからぬが、父の前にて人と物いふとて、史書の文(もん)を引きたりし、さかしくは聞こえしかども、尊者(そんじや)の前にては、さらずともと覚えしなり。また、ある人のもとにて、琵琶法師の物語を聞かんとて、琵琶を召し寄せたるに、柱(ぢゆに)のひとつ落ちたりしかば、「作りてつけよ」といふに、ある男の中に、あしからずと見ゆるが、「古きひさくの柄ありや」などいふを見れば、爪をおふしたり。琵琶などひくにこそ。めくら法師の琵琶、その沙汰に及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。「ひさくの柄は、ひもの木とかやいひて、よこあらぬ物に」とぞ、ある人仰せられし。

 若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

 

現代語訳

 「すべて、人は無知無能(学問や芸能も身に付けていないという風にしているのがよい)でなければならない。ある人の子の、容姿は様々であるが、父の前で人と何かをするのに、『史記』や『漢書』など中国の歴史書に描かれる内容を引用するなどして、利発らしさは見えるけれども、目上の人の前では、そのようにしなくてもと思う。また、ある人の下で、琵琶法師の語る物語を聞こうと、琵琶を取寄せようとしたところ、琵琶の弦を支える柱の一つを落ちたので、「作ってつけなさい」と言うのに、そこにいた男の中で、品性のいやしく見える男が、「使い古しのひしゃくの柄があるか」などと言うのを見れば、その男が爪を長く伸ばしていた。琵琶を弾くのであろう。盲法師の琵琶ごときに、そのような処置をするにも及ばない事である。自身が琵琶の道に心得があるのであろうが、苦々しく感じた。「ひしゃくの柄は檜物木と言って良くない物である」とある人が仰っていた。

 若い人は、少しの事でも、よく見えたり、悪く見えたりするものだ。

 ※ひしゃくの柄は檜で作ってあり、使い古しの柄杓の柄は、木が枯れて油気が抜けているから用いたのであろう。『胡琴教録』「付柱」に、「油気のなき檜にてこれをつくる」とある。「木師抄』等によれば、古くは使い古しの柄杓で柱を作るのがふつうであったようである。「ひさごのえは、ひもの木といひて、目こまかなに赤くやはらかにて、とくも潰ひ、またきしきしとなり、また、なかなか油ぎりたるもあれば、わろし」とある。

 

第二百三十三 難点のない行動

 よろづのとがあらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かずうやうやしく、言葉すくなからんにはしかじ、男女、老少(らうせう)、みなさる人こそよけれども、ことに、若くかたちよき人の、言(こと)うるはしきは、忘れがたく、思ひつかるるものなり。

 よろづのとがは、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して。人をないがしろにするにあり。

 

現代語訳

 「万事につけて難点がない様にと思えば、何事にも誠実で、誰に対しても礼儀正しく、口数の少ないのにこしたことはあるまい。男女・老少みなそうした人が良いが、特に、若く容貌が良い人の、言葉遣いが端正なのは、忘れがたく、心が深く引き付けられるものだ。

 すべての難点は、物慣れたように巧者ぶり、得意げな様子をして、人を侮り軽んずるところから生じるものである。