鎌倉散策 『徒然草』第二百二十五段から第二百二十九段 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第二百二十五段 白拍子の根本

 多久資(おほのひさすけ)が申しけるは、通憲(みちのり)入道、舞の手の中に興ある事どもをえらびて、磯の禅師(いそのぜんじ)といひける女に教えて舞はせけり。白き水干に鞘巻(さうまき)を差させ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞(をとこまい)とぞ言ひける。禅師がむすめ、静(しづか)と言ひける、この芸をつけり。これ白拍子(しらびゃうし)の根元なり。仏神の本縁をうたふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作もあり。亀菊に教へさせ給ひけるとぞ。

 

現代語訳

 「多久資(おほのひさすけ:楽人。学書の楽人の筆頭を十余年つとめた一の者)が申されるのは、通憲入道(藤原通憲)が舞の形の中で興味のある事をえらび、磯の禅師と言う女に教えて舞らせた。白い水干を着て鍔(つば)の無い短刀を差し、烏帽子をかぶっていたので、男舞と言われた。禅師の娘が、静と言うものがこの芸を継いだ。これが白拍子の根元である。仏神の由来や縁起を唄う。その後に源光行(後鳥羽院の北面の武士)が多くの歌詞を作った。後鳥羽院の御作の歌もある。後鳥羽院が寵愛した舞女亀菊に教え舞させたという。

 

第二百二十六段 平家物語の作者

 後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)、稽古の誉れありけるが、楽府(がくふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳(しちとく)の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠(くわん)者の異名を付きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。

 この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事をことにゆゆしく書けり。九郎判官の事は、くはしく知りて書きのせたり。。蒲冠者(かばのくわんじや)の事は、よく知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生仏、東国の者にて、武士に問い聞きて書かせけり。かの生仏が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。

 

現代語訳

 「後鳥羽上皇の治政された時に、信濃前司行長は、学問に通じているという評価が高かったが、漢詩の一体の『白氏文集』中の「新楽府」と題する五十編の詩の問題点について、御前で討議する一員に召された。しかし、『白氏文集』巻三、「新楽府」の巻頭の詩の題である七徳の舞の二つを忘れてしまったので、人々が五徳の若輩者と軽蔑したあだ名をつけられたのを、情けない事に思って、学問を捨てて出家していた。しかし、慈鎮和尚(比叡山延暦寺の大僧正慈円)は、一芸ある者を下部の果てまで召し抱えて、面倒を見ておられたので、この信濃入道もお世話なさった。

 この行長入道、平家物語を作って、生仏(伝未詳。盲目の僧)と言う盲人に教えて語らせた。それで、比叡山延暦寺の事をことに立派に書いている。九朗判官(源義経)の事は、詳しく知っていたので書きあげた。蒲冠者(源範頼)の事は、よく知らなかったが、多くの物を書き漏らしている。武士の事や武芸の事は、生仏が、東国の者であったために武士に問い聞いて行長に描かせた。この生仏が生まれつきの発音を、今の琵琶法師が学んでいるのである。」。

 

 ※後鳥羽院の御時、寿永二年(1183)~承久三年(1221)までの間。信濃前司行長は中山幸隆の子(藤原氏の中山中納言の孫)で信濃前司行長は下野前司行長の誤りで、下野守行長かと推測される。この行長であれば九条兼実(慈円の兄)の家司であった。

七徳(しちとく)は武士の持つ七つの徳で、暴力をおさえ、戦をやめ、国家の大きを保ち、いさおしたてて、民を安んじ、万民を和らげ、財を豊かにするの七伝。

 『平家物語』は、作者不詳の軍記物語で鎌倉時代に成立され、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などが描かれた。具体的に作者を明記しているのは兼好法師の『徒然草』のこの段のみである。盲目僧として知られる琵琶法師が日本各地を巡り、口承で伝えてきた語り本と、語り本を読み物にして増補された読み本系統の物がある。『平家物語』には多くの異本があるが、現在流布する『平家物語』は語り本の覚一本系の高野本であり、壇の浦で海に投身して助けられた平徳子が出家して、建礼門院として京都大原寂光院で安徳天皇と平家一族の菩提を弔う後日談や、侍女の悲恋の物語である「灌頂徴」で『平家物語』の幕を引いてている。

 

第二百二十七段 六時礼讃・法事讃

 六時礼讃は、法然上人の弟子、安楽と言ひける僧、経文をあつめて作りて、勤めにしけり。そのうち、太秦善観房(うづまさぜんくわんぼう)と言ふ僧、ふしはかせを定めて、声明になせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讃も、同じく善観房始めたるなり。

 

現代語訳

 「浄土信仰の者が、日課として晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六時に阿弥陀仏を礼拝讃歎するのに唱える偈(げ)は、法然上人の弟子、安楽と言う僧が、経典の文句を集めて作り、勤行に用いた。その内、太秦善観房(うづまさぜんくわんぼう:伝未詳。京都市右京区太秦広隆寺の僧か)と言う僧が墨譜を定めて、声明にした。一念の念仏の最初である。御嵯峨院の治政の時代より始まった。法事讃も、同じく善観房が始めた。

  

第二百二十八段 千本の釈迦念仏

 千本の釈迦念仏は、文永のころ、如輪(によりん)上人がこれを始められけり。

 

現代語訳

「千本の釈迦念仏(京都市上京区千本の大報寺で毎年二月九日から十五日まで、涅槃像を掛けて釈迦牟尼仏の名を唱える行事)は、文永(1264~75まで)のころ、如輪上人(如琳とも書く。澄空。大法恩寺の長老。天台・浄土両宗に通ず)がこれを始められた。

 

第二百二十九段 妙観が刀

 よき細工は、、少し鈍き刀を使ふといふ。妙観(めうかん:伝未詳)が刀はいたく立たず。

 

現代語訳

 「すぐれた細工人は、少し切れ味の悪い刀を使ふという。妙観(みょうかん:伝未詳。摂津の国勝尾寺の観音像と四天王像を刻んだ人と言う。ただしこれは兼好よりも約五百五十年以前の人である)が刀はそれほど刃がするどくない。」。