鎌倉散策 『徒然草』第二百十五段から第二百十六段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第二百十五段 小土器の味噌―北条時頼の話(一)

 平宣時朝臣(たいらののぶときあそん)、老いののち、昔語(むかしがた)りに、「最明寺入道(さいみょうじにゅうどう:北条時頼)、ある宵(よひ)の間に予婆るる事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくてとかくせしほどに、また使来たりて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、ことようなりとも疾(と)く』とありしかば、なえたる直垂、うちうちのままにてまかりたりしに、銚子(てうし)に土器とりそへて持(も)て出でて、『この酒をひとりたうべんがさうざりしければ、申しつるなり。肴(さかな)こそなけれ、人は静まりぬらん、さりべき物やあると、いずくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭(しそく)さして、くまぐまを求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少しつきたるを見出でて、『これぞ求め得て候』と申ししかば、『事足りなん』とて、快く数献(すこん)に帯びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍り鹿」と申されき。

 

(北鎌倉 建長寺所像北条時頼像)、(北条時頼と大仏宣時 [菊池容斎『前賢故実』、『徒然草』中の逸話より] 、

現代語訳、

 「平宣時朝臣(たいらののぶときあそん:大仏宣時)が、老後に、昔の話を語った。「最明寺入道(北条時頼)が、ある日の日が暮れて暗くなった時分に私をお呼びになった事があったが、『すぐに参ります』と申したが、直垂がなくてぐずぐずしているうちに、また使いがやって来て、『直垂が無いのですか。夜なのでどんな服装でも良いから早く』と言われたので、よれよれになった直垂でえ、普段のままの姿で参ったところ、銚子に素焼きの盃を取り添えて持って出て来て。『この酒をひとりで飲むのが寂しいので、お呼びしたのだ。酒の肴が無いが、家の者は寝静まった事だろう、調度よさそうな物があるかどうかと、そこらじゅうを探してくれないか』とお言葉だったので、紙燭の照明をいか坐して、隅々を探すと台所の棚に、素焼きの小皿に味噌が少しついているのを見つけ、『これをやっと探し当てました』と申すと『それで十分だろう』と言って、快く数献飲み干して、良い機嫌におなりになった。その時分は、実にこんな風でした」と申された。」。

 

(北鎌倉 明月院)

 ※「酒を一献」と言うが、酒を盃に三倍のむことを一献といい、ここではそれを数回繰り返したのである。

北条時頼は鎌倉幕府三代執権北条時氏の次男として嘉禄三年(1227)五月十四日に生まれている。父時氏が早世し、四代執権を継いだ兄経時も早世したために五代執権となった。在職期間は(1246-1256)である。康元元年(1256)十一月に最明寺にて三十歳で出家、法明道崇。弘長三年(1263)十一月に最明寺にて没する。享年三十七歳。

平宣時朝臣は大仏宣時であり、北条時政の祖孫で北条時房の孫にあたる。父が大仏流北条氏の祖である北条朝直で、当初時忠を名乗っていたが文永二年(1265)六月十一日に引付衆になった段階で宣時に改名している。健治二年(1277)引付頭人になり、弘安十年〔1287〕に執権北条貞時の連署を勤める。その後に陸奥守、遠見守などを兼任し承安三年(1301)に出家、元亨三年(1323)六月三十日に八十六歳で没する。後醍醐天皇の討幕により、大仏流北条氏は鎌倉幕府と共に滅亡した。この話は、時頼が出家した康元元年(1256)に宣時は十九歳で、時頼の没した弘長三年(1263)の間の話であると思われる。弘長三年宣時は二十六歳であった。

 兼好が関東に下向した際、大仏宣時から直接聞いた話と考えられる。兼好の最初の関東下向を徳治元年(1307)とすると、宣時は六十九歳、再度の下向を文保二年(1318)とすると宣時は八十一歳であった。

 

(鎌倉 鶴岡八幡宮)

第二百十六段 足利の染物―北条時頼の話(二)

 最明寺入道、鶴岡の社参(社さん)のついでに、足利左馬入道(あしかがのさまのにゅうどう)の許へ、まづ使を遣はして、立ち入られたるけるに、あるじまうけられたりける様は、一献にうちあはび、二献にえび、三献にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆弁僧正(りゆべんそうじやう)、あるじ方の人にて座せられけり。さて、「年ごと給はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調(てう)ぜさせて、後につかはされけり。

 さて時見たる人の、。近くまで侍りしが、語り侍りしなり。

 

現代語訳

 「最明寺入道(北条時頼)鶴岡八幡宮に参詣されたついでに、足利左馬入道(足利義氏)の邸宅に、まず使いを出して、お立ち寄りになった折に、饗応されたその仕様は、最初の一献で銚子と共に出された善部にのしあわび、二献目には海老、三献目にはかいもち(牡丹餅もしくは蕎麦がき)と言う献立で終わった。その場には、義氏夫婦、隆弁僧正(鶴岡八幡宮の別当、四条大納言隆房の子)主人側の物にて座られた。さて、「毎年いただいている足利の染物は、待ち遠しいほどです」と申されると、「用意しております」と言って、色々の色に染めた反物三十疋、(時頼)の前にて女房たちが小袖に仕立てさせて、入道のもとに後に遣わされた。

 その時の光景を見て、最近まで生きていた者が、語った事である。」。

 

(北鎌倉建長寺三解脱門)

 ※中世・近世において用いられた銭貨の数え方で、通貨単位ではない。百匹を以って一環としたなど物価により変動している。反物の個数は疋で表し、一疋は布地二反の反物。近代に入り布地の反物において反を用いるようになる。

 足利義氏は、足利家三代目当主で、河内源氏の棟梁の八幡太郎義家の玄孫(やしゃご)であった。現在の栃木県足利市を本拠として、『吾妻鏡』に「関東の宿老」と記されている。義氏の母は、北条時政の娘時子であったために三男であったが家督をつぐ。自身も三代執権北条泰時の娘もしくは義時の娘を正室御迎えている。北条氏と姻戚関係を持ち、正五位下左馬守に就く。しかし、幕府での要職には就かなかったものの、和田合戦や承久の乱などの重要な局面で北条義時・泰時を補佐し、晩年の宝治合戦に至るまで幕府の長老として覇業達成に貢献した。三河守護、陸奥守、武蔵守を歴任し、仁治三年(1241)に出家する。建長元年(1249)に正義山法楽寺(栃木県足利市)を建立。建長六年(1255)十一月二十一日に死去し、享年六十七歳であった。

北条時頼にとって義氏は義理の叔父に当たり、義氏が没した時は二十八歳であった。この段では、時頼の出家以前の話で、おそらく執権在任中の事であると考えられる。義氏は時頼よりも三十八歳年長で、時頼十五歳の時に出家している。したがって、義氏の方は既に出家のみで、足利左馬入道と呼ばれていた時の話と考える。