鎌倉散策 『徒然草』第二百十七段から第二百十九段 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第二百十七段 大欲は無欲に似たり

 ある大福長者のいはく、「人はよろづをさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからくまづその心づかひを修行すべし。その心といふは、他の事にあらず。人間常住(じやうぢゆう)の思ひに住して、かりにも無常を観ずる事なかれ。これ第一の用心なり。次に、万事の用をかなふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量(しよぐわんむりやう)なり。欲に随ひて志を遂げんと思はば、百万の銭(ぜに)ありといふとも、しばらくも住すべからず。所願は止む時なし。財(たから)は尽くる期(ご)あり。財を持ちて、限りある財をもちて、限りななき願ひにしたがふ事、得べからず。所願心にきざす事あらば、われを滅ぼすべき悪念来たれりと、かたく慎み恐れて、小要(せうえう)をもなすべからず。次に、銭を奴(やつこ)のごとくして使ひ用ゐる物と知らば、ながく貧苦をまぬかるべからず。君のごとく神のごとく恐れたふとみて、従へ用ゐる事なかれ。次に恥に臨むといふもとも、怒り恨むる事なかれ。次に、正直にして約を固くすべし。この義をまぼりて利を求めん人は、富み来たる事、火のかわけるにつき、水のくだれるに従ふがごとくなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲声色を事とせず、居所(きよしよ)をかざらず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く楽し」ともうしき。

 そもそも、人は所願を成ぜんがために財を求む。銭を財とする事は、願ひをかなふるが故なり。所願あれどもかなへず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者とおなじ。何かを楽しびとせん。このおきては、ただ人間の望みをたちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、しかじ、財なからんかには、廱(よう)・疽(そ)を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんにはしかじ。ここにいたりては、貧富分く所なし。究竟(くきやう)は理即(りそく)にひとし。大欲は無欲に似たり。

 

(鎌倉 妙法寺の海棠)

現代語訳

 「ある大金持ちが言うのは、「人は万事を差し置いて、ただ一途に富を獲得すべきだ。貧しくては生きている甲斐が無い。富を得ることが人間と言うものだ。財産を得ようと思えば、当然なすべきことをして心の持ち方を修行しなければならない。その心と言うのは、他の事にはない。この世の中は永久不変だという考えを堅持して、かりにも無常の心静かな清浄の境地で、世界のありのままを正しく眺める事ではない。これが第一の心がけである。次に、すべてにおいて用事を果たしてはならない。人がこの世に生きてゆくのに、自分の事につけ他人の事に付け、したいことは無限である。欲望の起こるままに望みをかなえようと思えば、百万の金銭があろうとも、しばらくの間でもそのお金は手元に留まっているはずがない。人間の願望は止む時はない。財産は尽きてしまう。限りある財産をもって、限りない願いを満たそうとする事は、不可能である。欲望が心に起こりかけたならば、自分を破滅させるに違いない悪い考えがやって来た時に、非常に慎み恐れて、いささかの用事でも果たしてはならない。次に、金銭を下僕のように自由に使用する物と、心得ているのなら、長く貧困を遁れることが出来ない。(金銭を)君のように神のように恐れ尊み、これを思いのままに使ってはならない。次に、金銭上の事に関して恥ずかしい目に合っても、怒り恨む事があってはならない。次に、正直にして約束を厳守しなければならない。以上に述べた道理を守って利益を求めようとする人は、豊かになる事は、火が乾燥している物に燃え移り、(人の性の善なるは)水の下(ひくき)につくがごとし流れるようなものであろう。金銭が貯まるのが尽きる時には、酒宴や美声や女色に熱中せず。住居を飾り付けず、願望が満たすことが無くても、心はいつまでも安らかで楽しくあれ」と申された。

 そもそも人は欲望を叶えるために財産を求める。金銭を財宝として尊むのは、(それが)願いを叶えるためである。欲望があってもそれを満たさずに、金銭があっても、使わないのは全く貧しいものと同様である。(それでは)何をも楽しみともしない。以上のような大金持ちの戒めは、ただ人間の世間的な欲望を断ち切り、貧乏を嘆き悲しんではならないという意味に私には聞こえる。欲望を満足させて楽しみとする事よりは、財宝が無い方がましであろう。悪い出来物の廱(よう)・疽(そ)を病む人は(患部を)水で洗って気持ちよく思っているよりは、病気にならない方が良い。心に願う所があっても、これを満たさずにお金があってもこれを使わないというに至っては、貧者も金持ちも、その境地において区別できなくなる。天台宗での真理に相即(そうそく)した悟りの境地の最高位である究竟は悟りの境地の所位の理即(りそく)に等しい。大きな欲は無欲に似ている。

 

(ウィキペディア引用 吉田 兼好(菊池容斎画『前賢故実』)

第二百従八段 狐は人に食いつくもの

 狐は人に食いつくものなり。堀川殿にて、舎人(とねり)が練たる足を狐に食はる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師(しもほふし)に狐三つ飛びかりて食ひつきければ、刀を抜きてこれをふせく間、狐二疋を突く。一つは突き殺しぬ、二つは逃げぬ。法師はあまた所食はれながら、ことゆゑなかりけり。

 

現代語訳

 「狐は人に噛みつくものである。堀川殿にて、(摂関家の貴族に使える牛車の飼い主や乗馬の口取りをする)舎人が寝ていた時に足を狐に咬まれた。仁和寺で、夜、本堂の前を通る(雑役に従事する最階位の)下法師が狐三匹きに飛びかけられて噛みつかれた。刀を抜いて狐を防ぐ間に、二疋を突いた。一匹は突き殺し、二匹目は逃げてしまった。法師は何か所も嚙みつかれたが、特にこれと言う事も無かった。

 

(ウィキペディア引用 笙を吹く源義光を描いた『足柄山月』 月岡芳年「月百姿」、笙の演奏)

第二百十九段 横笛の五つの穴

 四条黄門(しじょうくわうもん)命ぜられていはく、「龍秋(たつあき)は、道にとりてはやんごとなき者なり。先日来りていはく、『短慮の至り、きはめて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、いささかいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存す。その故は、干の穴は平調(ひやうでう)、五の穴は下無調(しもむぞう)なり。その間に、勝絶調(しようぜつぜう)をへだてたり。上(しやう)の穴、双調(そうぞう)。次に、鳬鐘調(ふしようごう)を置きて、夕の穴、黄鐘調(わうしきごう)なり。その次に鸞鏡調(らんけいぜう)を置きて、中の穴、盤渉調(ばんしきぜう)、中と六とのあはひに、神仙調(しんせんぜう)あり。かやうに間々に皆一律を盗めるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間をくばること等しきゆゑに、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得る人かたし』と申しき。料簡(れうけん)の至り、まことに興あり。先達、後生(こうせい)を恐るといふ事なり」と侍りき。

 他日に、景茂(かげもち)が申し侍りしは、「笙(しやう)は、調べおほせて持ちたれば、ただ吹くばかりなり。笛は、ふきながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物ならば、穴ごとに、口伝(くでん)の上に性骨(しやうこつ)を加へて心を入るること、五の穴のみに限らず。ひとへにのくとばかりも定むべからず。悪しく吹けば、いづれの穴も快からず。上手はいづれも吹きあはす。呂律(りよれつ)の物にかなはざるは、、人のことがなり。器(うつわもの)の失にあらず。」と申しき。

現代語訳

 「四条黄門(藤原隆資〔たかすけ〕)が仰せられるには、「豊原龍秋(笙の名手で後光天皇の師。四条隆資にも師事した楽人)は、笙(しょう:日本伝統芸能の雅楽で使用される管楽器の一つ)の道にとっては実に大した者である。先日に来て言うのは『このような事を申し上げるのは、大変考えが浅く口幅ったい申し様ですが、横吹きの笛(竜笛〔りゅうてき〕)の中で五の穴は、少し不審な点があるかと、心の中で思っています。それというのは、横笛の干の穴は平調で、五の穴は下無調です。その間に、勝絶調を隔てています。上の穴は、双調です。次に鳬鐘調(ふしようごう)を置いて、夕の穴、黄鐘調(わうしきごう)になります。その次には鸞鏡調(らんけいぜう)を置いて、中の穴の、盤渉調(ばんしきぜう)、中と六との間に、神仙調(しんせんぜう)があります。このように間々に皆一律に置いているのに、五の穴だけが、上の間に調子を持たず、しかも、間を置くことなしに等しい事で、その音が不快あらわします。そうであるなら、この穴を吹く時は、必ず吹き口から口を離して吹きます。うまく離して吹けない時は、他の楽器に合いません。上手く吹ける人はめったにおりません』と申した。これは実に優れた考えで実に興味深い。先輩が後身を恐れると言われているのは、このことだと。後から生まれてくる者は、どれほど成長するか分からないからである」と。

 他の日に大神景茂(笛の名手の楽人)が申した事は、「笙は調律をちゃんと済ませて手に持っているのだから、あとはただ吹くだけの事です。笛は、ふきながら、息づかいのうちに、その一方で調子を整えて行く楽器であるために、穴ごとに、吹き方の秘訣を受けた上に、ふき手の生まれつきの素質を加えて心得ることで、五の穴のみに限らない。また、一概に口を離して吹くとばかりも決められません。下手に吹けば、どの穴も快い音は出ません。上手な人はどの穴からも調子に合うように吹かれる。旋律が楽器に上手く合わないのは人の欠点です。楽器の欠点ではありません」と申された。」。