鎌倉散策 『徒然草』第二百十一段から第二百十四段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第二百十一段 寛大にして極まらざる時

 よろづの事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼むゆゑに、恨み怒ることあり。

 勢ひあるとて頼むべからず。こはき者まづほろぶ。財(たから)多しとて頼むべからず。時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず。孔子も時にあはず。徳ありとて頼むべからず。顔回(がんくわい)も不幸なりき。君の寵(ちょう)をも頼むべからず。誅を受くる事すみやかなり。奴従(やつこ)ヘリとて頼むべからず。そむき走る事あり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約をも頼むべからず。信ある事すくなし。

身をも人をも頼まざれば、是(ぜ)なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右広ければさはらず。前後遠ければ塞(ふさ)がず。せばき時はひしげくだく。心を用ゐこと少しきにしてきびしき時は、物にさかひ争ひて破る。ゆるくしてやはらかなる時は、一毛も損ぜず。

 人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性(しやう)なんぞ異ならん。寛大にして極まらざる時は、喜怒これにさはらずして、物のために煩はず。

 

(奈良東大寺)

現代語訳

 「多くの事は頼みにすることが出来ない。愚かな人は、深く物を頼むので、恨みや怒りを買う事がある。権勢があると言っても、それを頼んではいけない。強力な者が先ず滅ぶ。財産が多い者は、頼み事をしてはならない。時間の経過とともに失う事がある。学才あるとしても物事を頼んではいけない。あの孔子でさえも世に用いられず不遇に終わっている。徳があるとされても頼みごとをしてはいけない。顔回(がんかい:孔子の弟子で徳行を以って聞こえていた)も不幸になった。仕える主君に特別に可愛がられる事があっても頼みごとをしてはならない。一旦君の怒りを蒙れば、たちまち罪を受けて殺されてしまうだろう。奴僕が自分の言いなりになっているからといっても頼み事をしてはならない。人は必ず変わるからだ。人との約束も頼んではならない。約束が守られることは少ない。

 自分も他人も頼みごとをしなければ、うまくいった時には喜び、うまくゆかない時には人を恨むと言う事はない。左右に広げればさえぎる物は無い。前後が遠ければ塞がることが無い。それに反して前後左右が狭く窮屈な場合には、つぶれ砕けるものだ。心をくばる事に、こせこせしていて厳格な時は、人と摩擦を起こし争ってわが身を傷つける。その反対に心をくばる事でゆったりとした時は、いささかも我が身を損なう事はないものだ。

 人は天地の間に存在するものの中で最も霊妙なものである。ところが、その天地は広大無辺で、極まる所が無い。人間の本性も極限する所のない天地の本性と、どうして異なる所があろうか。心が寛大で再現もなく広い時は、喜びや怒りの感情が心を騒がす事も無く、外部のために煩わされる事はない。」。

 

第二百十二段 秋の月

 秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分からざらん人は、無下に心うかるべきことなり。

 

現代語訳

 「秋の月は、この上なくいいものである。いつでも月はこういうものだと思って、その趣を他の季節の月と区別しないような人は全く情けない事である。

 

第二百十三段 御前の火炉に火をおく時

 御前の火炉(くわろ)に火をおく時は、火箸(ひばし)してはさむ事なし。土器(かはらけ)よりただちに移すべし。されば、ころび落ちぬやうに、心得て炭を積むべきなり。

 八幡の御幸(ごかう)に、供奉(ぐぶ)の人、浄衣(じやうえ)を着て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、「白きものを着たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。

 

現代語訳

 「天皇や上皇など高貴な人の御座の前の火鉢や囲炉裏などに炭火をおく時は、火箸で挟むことはしない。釉(うわぐすり)をつけずに焼いた陶器よりじかに移す。そうすれば、火炉の中に積んである火のついていない炭の上に、炭火をつぐが、炭の積み方が悪いと土器から明けた炭火が転がり落ちるから、そういう事のないように心がけて炭を積んでおく。

 石清水八幡宮への御幸は、お供の物が白布または白絹で狩衣の形を仕立てた浄衣を着て、手にて炭をお継になったところ、ある有識に通じた方が、「白いものを着た日には、火箸を使う事は、さしつかえない」と申された。」。

 

第二百十四段 想夫恋・廻忽

 想夫恋(さうふれん)といふ楽(がく)は、女、男を恋ふる故の名にはあらず。本は相府蓮、の文字を通へるなり。晋(しん)の王倹(わうけん)、大臣として、家の蓮(はちす)を植ゑて愛せし時の楽なり。是より大臣を蓮府といふ。

 廻忽(くわいこつ)も廻鶻(くわいこつ)なり。廻鶻国とて、夷(えびす)の、こはき国あり。その夷、漢に伏して後に、来たりて、おのれが国の楽を奏せしなり。

 

現代語訳

 「想夫恋と言う楽曲は、妻が、夫を恋する事から名付けられた名ではない。元来は相府蓮であり、文字が似通っているために記された。晋(しん:中国の三国の魏に代わり建国された)の王倹(わうけん:東晋の滅亡後初めて南朝の僧と明帝に仕え次いで南斉の太祖と世祖に仕えた)、大臣として、家に蓮を植えて好愛したた時に作られた楽曲である。これより大臣を蓮府と呼ぶようになった。

 廻忽(くわいこつ)も廻鶻(くわいこつ)と記されるようになり。(外モンゴルに原住し、随・唐から宋・元にかけて活躍したトルコ系民族、廻鶻国(ういぐる)として、)未開の外国人を呼ぶ夷の、強い力な国があった。その夷は、中国に帰服した後に、やって来て、自身の国の楽曲を奏でたものである。

※想夫恋は(さうふれん)雅楽の有名な曲。この曲名は『枕草子』や『源氏物語』に見られるが、この部分は『平家物語』巻六、「小督」に、「楽はなんぞと聞きければ、夫をおもふて恋ふと読む想夫恋と言う楽なり」とある。これを念頭に置いて書いたのであろう。

「晋」は、中国の三国の魏に変わり、265年に司馬炎が建てた西晋と、その滅亡後に王族司馬睿が再興した東晋を言う。東晋の滅亡後に王倹は初めて南朝の宋の明帝に仕え、次いで南斉の太祖と世祖に仕えた。489年に三十八歳で没する。常に晋の貴族謝安の風流を推称していたという。