鎌倉散策 『徒然草』第二百六段から第二百十段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第二百六段 浜床にのぼる牛―徳大寺実基の逸話(一)

 徳大寺右大臣殿、検非違使の別当の時、中門(ちゅうもん)にて使庁の評定おこなはれける程に、官人章兼(あきかね)が牛放れて、庁のうちへ入りて、大理の座の浜床(はまゆか)の上にのぼりて、にれうちかみて臥(ふ)したりけり。重き怪異(けい)なりとて、牛を陰陽師のもとへつかはすべきよし、おのおの申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくヘかのぼらざらん。尩弱(わうじやく)の官人、たまたま出仕の微牛(びぎう)を取らるべきやうなし」とて、牛をば主(ぬし)に返して、臥したりける畳をばかへられにけり。あへて凶事なかりけるなん。

「あやしみを見てあやましまざる時は、あやしみかへりて破る」といへり。

 

現代語訳

 「徳大寺右大臣殿(徳大寺公孝)が、検非違使の別当の時に、徳大寺邸の中門で検非違使庁の会議が行われた。その時に官人中原彰謙の牛車の牛が放たれて、庁舎の中に入り、別当の座の浜床(はまゆか:寝殿の母屋に設けた高さに尺ほどの方形の台)にのぼって、食べ物を反芻するように横になってしまった。重大な怪異であるとして、牛を陰陽師のもとに遣わせ(吉凶を占わせ)ようにと、役人たちが各自申すのを、公孝の父である太政大臣実基がそれを聞いて、「牛には分別が無い。足があれば、何処かにのぼろう、薄給の役人(章兼)が、たまたま出仕をするのに使った痩せ牛を没収される理由はない」と言って、牛を章兼に返して、横になってしまった畳を変えられた。全く凶事はなかった。

「あやしい事を見てあやしまない時は、その怪事をかえって成り立たなくするものだ」と言われた。

 ※「あやしい事を見てあやしまない時は、・・・」、中国のことわざとして、諸書に見える。また『左大臣史小規季継記』等にも見られ、その牛の持ち主は官人章国となっており、章国は章兼の同僚。

 

(京都御所)

第二百七段 掘りて捨てられた蛇―徳大寺実基の逸話(二)

 亀山殿(かめやまでん)建てられんとて、地をひかれけるに、大きなる蛇(くちなわ)、数も知らず凝りあつまりたる塚ありけり。この所の神といいひて、事のよしを申しければ、「いかがあるべき」と勅問ありけるに、「古くよりこの地を占(し)めたる物ならば、さうなく堀り捨てられがたし」と皆人申されけるに、この大臣一人、「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何のたたりをかなすべき。鬼人(きじん)はよこしまなし。とがむべからず。ただみな掘り捨つべし」と申さりたりければ、塚をくずして、蛇をば大井川に流してげり。さらにたたりなかりけり。

 

現代語訳

 「亀山殿(建長年間に御嵯峨上皇が京都市右京区亀山の麓に造営した離宮)建てられようと、地ならしをされていたところ、大きな蛇が数も知れずに固まり集まっている塚があった。この土地の神であると言って、事の次第を申し上げたところ、「どうしたものであろうか」と御嵯峨上皇に勅問(ちょくもん:御指示)を伺った。「古くからこの地に住み着いている物なら、むやみに掘り捨てるのは難しい」と皆が申するに、この徳大寺実基右大臣一人、「天皇がおさめて居る国土に居る虫が、皇居を建てられようとするのに、何の祟りがあろうか。鬼人は天地万物の霊魂で政道を外れたことをしない。気にかける必要はない。すべて堀つくせ」と申されたので塚をくずして蛇を大井川に流された。いっこうに祟りは無かった。」。

 

(京都御所)

第二百八段 弘舜僧正のこと

 経文などの紐を結ふに、上下(上下)よりたすきにちがへて、二筋(ふたすじ)の中より、わなの頭を横さまにひき出す事は、常の事なり。さやうにしたるをば、華厳院弘舜僧正(けごんいんこうしゆんそうじやう)、解きてなほさせけり。「これは、このごろやうの事なり。いとにくし。うるはしくは、ただくるくると巻て、上より下へ、わなを先をさしはさむべし」と申されけり。

 古き人にて、かやうのこと知れる人になん侍りける。

 

現代語訳

 「巻物になっている経文の紐を結ぶのに、上からと下からとたすきの様に交差させて、交差している二筋の紐の間から糸や紐などをわがねて輪状にして横向きに引き出す事は、普通のやり方である。そのようにしたならば、華厳院弘舜僧正(けごんいんこうしゅんそうじょう)が解いて直された。「これは、当世風の結び方である。実に見苦しい。正式には、ただくるくると巻いて、上より下へ、輪状の先を差しはさむのだ」と申された。

 この僧正は年を取られて年功を積んだ方で、このような事によく通じておられる。

 

(鎌倉中央公園)

第二百九段 僻事せんとてまかる者なれば

 人の田を論ずる者、訴へてに負けて、ねたさに「その田を刈りてとれ」とて、人をつかはしけるに、まづ道ずがらの田をさへ刈りもてゆくを、「これを論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈る者ども、「その所とても、刈るべき理(ことわり)なけれども、僻事(ひがごと)せんとてまかる者なれば、いづくを刈らざらん」とぞ言ひける。理(ことわり)、いとをかしけり。

 

現代語訳

「他人の田を我物だと言って争っていた者が、訴訟に負けて、口惜しく、「その田を刈り取れ」と人を使って行わせた。(その者どもが)まず道すがらの関係のない田の稲まで刈って行くので、(これを見ていた第三者が、)「これはあなたの主人が、訴訟なさっている田では無い。それなのにどうしてこのような事をするのか」と言った。刈る者どもは、「訴訟になった田でも、刈って良いという道理はないが、間違った事をしようとして出かける我々なので、どこの田でも刈らない事があろうか」と言い放った。この理屈は、何とも面白いものである。」。

 

第二百十段 喚子鳥

「喚子鳥(よぶこどり)は春のものなり」とばかり言ひて、いかなる鳥もさだかに記(しる)せる物なし。ある真言書の中に、喚子鳥鳴く時、招魂(せうこん)の法をばおこなふ次第あり。これは鵺(ぬえ)なり。万葉集の長歌(ながうた)に、「霞(かすみ)立つ長き春の日の」などつづけたり。鵺鳥(ぬえどり)も喚子鳥のことざまに通ひてきこゆ。

 

現代語訳

 「『喚子鳥は春の鳥である』とばかりに言われるが、どの様な鳥ともはっきり記載された書物は無い。ある真言書(しんごんしょ:未詳)の中には、喚子鳥が鳴く時、死者の魂を呼び戻す行法の行う順序が書いてある。これは鵺(ぬえ)である。万葉集の長唄に「霞立つ長き春の」など詞を連ね鵺の事を詠んでいる。鵺鳥も喚子鳥の様子に似通っているように思われる。

 ※喚子鳥『古今集』巻一、「をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも喚子鳥かな」と詠まれている「喚子鳥」が何を指すのかについては、古来から諸説があり、室町期以後は、古今伝授の非説とされるに至った。現在では郭公(ほととぎす)のこととするのが通説。『八雲御抄』巻三、「鳥部」に「喚子鳥 しととにぬれてと伝。人まつよひなどもよむ。春物也」とある。

 招魂(せうこん)の行法を行う時の喚子鳥とは、鵺の事をそう言っているのだ。上代歌謡に詠まれる「鵺」や『万葉集』に詠まれる「ぬえ子鳥」はいずれもトラツグミの異称である。

 『万葉集』巻一、「讃岐の国の安益(あや)の郡(こほり)に幸(いでま)す時に軍王(こにしのおほきみ)が山を見て作る歌」と題する長歌に、「霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らずむらきもの 心痛み ぬえこ鳥 うら泣き居れば(下略)」とある。