鎌倉散策 『徒然草』第百九十八段から第二百五段 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第百九十八段 揚名目

 揚名介(ようめいのすけ)に限らず、揚名目といふ者もあり。政治要略(せいじえうりやく)にあり。

 

現代語訳

 「揚名介(ようめいのすけ:「揚名」は、平安中期以後、名目だけで職務も禄もない官職を言う。「助」は、国司の次官)に限らず、揚名目(国司の四等官)と言う者もいる。政治要略(せいじえうりやく:惟宗允亮〔ときすけ〕著の法制書。巻六十七に、「諸国の揚名掾目等」云々に見える)に記載されている。」。

 

第百九十九 唐土は呂の国

 横川行宣法印(よこかわのぎやうせんほういん)が申し侍りしは、「唐土(からど)は呂(りよ)の国なり。律の音なし。和国は単律の国にて、呂の音なし」と申しき。

 

現代語訳

 「横川行宣法印(よこかわのぎやうせんほういん:「横川」は比叡山三塔の一。根本中堂の北方四キロの地にあり北塔とも言う)が申されるのは、中国は呂旋法の国の一つであると。「呂旋法」は、雅楽の旋法の一つで、中国音楽の旋律の根幹をなす旋法)律の音はない。日本は律旋法だけの国であって、呂旋法の音はない」と申される。」。

 

(鎌倉 報国寺)

第二百段 呉竹と河竹 

呉竹は葉ほそく、河竹は葉ひろし。御溝(みかは)に近きは河竹、仁寿殿(じじゆでん)のかたに寄りて植ゑられたるは呉竹なり。

 

現代語訳

 「呉竹(淡竹の異名。「呉」は、中国伝来の意味)は葉が細く、河竹(女竹:にがだけ:丘陵・川岸・海辺等に生える普通の竹)は葉が広い。皇居の周りを流れる御溝水の近くに生えているのは河竹で、紫宸殿の北側にある仁寿殿の方によって植えられているのが呉竹である。」。

 

第二百一段 退凡・下乗の卒都婆

 退凡(たいぼん)・下乗(げじよう)の卒都婆(そつとば)、外(そと)なる下乗、内なるは退凡なり。

 

現代語訳

 「(釈迦が霊鷲山〔りようじゆせん〕で説法した時、マカダ国の王ビンバシャラが、これを聞くために道を異開き。その中間に建てたという二つの卒都婆。「退凡」は凡人を退ける、「下乗」は、娑婆の乗り入れを禁ずるの意)退凡・下乗)の卒都婆、外にあるのは下乗、内にあるのは退凡である(『大唐西域記』に、「中路に二卒塔婆あり、一を下乗と言ふ。すなはち、王ここに至れば徒行して似て進む。一を退凡と言ふ。すなはち、凡人を簡(えら)びて同じく往かしめず」とある)。」。

 

第二百二段 神無月

 十月を神無月と言ひて、神事にはばかるべきよしは、記(しる)したる物なし。本文も見えず。ただし、当月、諸社の祭りなき故に、この名あるか。

 この月、よろづの神たち、大神宮へ集まり給ふなどいふなどといふ説あれども、その本説なし。さる事なれば、伊勢にはことに祭月(さいげつ)とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸(ぎやうかう)、その例もおおし。ただし、多くは不吉の例なり。

 

現代語訳

 「十月を神無月と言って、神を祀る事を遠慮しなければならないと言う事については、記したる書物はない。古典などにある典拠となる文句も見当たらない。ただし、この十月には、諸社の祭りが無い事にこの名があるのか。

 この月、多くの神々が伊勢の皇大神宮へ集まるという説があるがその根拠となるべき説もない。神々が太神宮に集まられるのが事実なら、この十月を特に祭りの月とするはずなのに、その例もない。十月に諸社の行幸の、その例は多い。ただし、それらの行幸の多くは不吉の例である。」。

 ※『奥儀抄』・1336年成立の『詞林采葉抄』をはじめとする諸書に、十月に神々が出雲の国に集まるという説を記しているが、伊勢に集まる事を記したものは見当たらない。神無月の諸社の行幸の何を不吉の例と考えたいたのか、明らかではない。

 

第二百三段 勅勘の所に靫かくくる作法

 勅勘(ちよくかん)の所に靫(ゆぎ)かくる作法、今はたえて知れる人なし。主上(しゆしやう)の御悩(ごなう)、おほかた世の中のさわがしき時は、五条の天神に靫をかけらる。鞍馬に靫の明神と言ふも、靫かけられたりける神なり。看督長(かどのをさ)の負ひたる靫を、その家にかけられぬれば、人出でいらず。このこと絶えて後、今の世には、封(ふう)をつくることになりにけり。

 

現代語訳

 「天皇の不興を蒙って譴責された物の家に矢を入れて背に負う筒状の箱に緒を通して肩にかける作法(やり方)をは、今は知っている人が全くいない。天皇の御病気は、一般に流行病などが流行って死者が続出している時には、五条(京都市下京区松原通西洞院の西)の天神に靫を掛けられる。鞍馬に靫の明神と言う、靫をおかけになった事のある神様がおられる。検非違使の下級役人で獄舎の管理や在任の追捕にあたる看督長の背負う靫を、その家に掛けられれば、誰もその家に出入りしない。この事が行われなくなって後、今の世には、その家に封印を付けることになってしまった。」。

 ※『本朝四紀』仁平元年(1151)八月二十六日の条に「今日、大納言伊通卿並びに参議教長卿の宅に、検非違使行き向かひ、靫木を門の上にかく」とあり勅勘を蒙った家に検非違使が赴き、その家の門の上に靫を賭けるのである。また、五条の天神の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(少名彦名の命)出疫病の神と考えられていた。京都市左京区にある鞍馬山の鞍馬寺の境内には、大己貴命、少彦名命を祀る。由岐神社は鞍馬の氏神。

 

第二百四段 犯人を笞にて打つ時

 犯人を笞(しもと)にて打つ時は、拷器(ごうき)に寄せて結ひつくるなり。拷器の様も、寄する作法も、今はわきまえ知れる人なしとぞ。

 

現代語訳

 「犯罪人を木の若木で作った鞭で打つ時は、拷問に用いる道具に近づけて紐で縛りつける。拷問に用いる道具の形状もそれに引き寄せて縛り付けるやり方も、今はわきまえて知る人はいないという。

 

第二百五段 起請文

 比叡山(ひえのやま)に、大師勧請(くわんじやう)の起請といふ事は、慈恵僧正(じゑそうしやう)書きはじめ給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。いにしへの聖代、すべて起請文についきては行はるる、政(まつりごと)はなきを、近代このこと流布したるなり。

 また、法令には、水火(すいくわ)に穢れをたてず。人物(いれもの)には穢れあるべし。

 

現代語訳

 「比叡山延暦寺の開祖伝教大師(最長)の例を勧請して書いた起請文と言う事は、慈恵僧正(じゑそうしやう:良源。第十八代天台座主。天台宗中興の祖と称せられる)が書きはじめられた。(しかし当時)起請文と言う事について、法律を取り扱う官人の間で、何の取り扱いもなかった(公家法では裁判に起請文を使用することが無かったという)。昔の聖徳太子の時代には、すべてを起請文と言う形式によって行われる政治は無く、近代において流布された。

 また、公の規定では、水と火とには、穢れを認めない。しかし、容器には穢れがあるという。

※起請文は、武家法で裁判官も原告も被告も承認も、度々起請文を書くことになり、鎌倉期の武家の裁判を論じ得ないほどだった。