鎌倉散策 『徒然草』第百九十四段から第百九十七段  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第百八十九段 虚言の受け取り方

 達人の人を見る眼(まなこ)は、少しも誤るところあるべからず。

 たとへば、ある人の、世に虚言(そらごと)を構え出だして人を謀(は)る事あらんに、すなほにまことと思ひて、言ふままに謀らるる人あり。あまりに深く信を起こして、なほ煩はしく虚言を心得そふる人あり。また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。また、いささかおぼつかなく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。また、まことしくは覚えぬども、人のいふ事なれば、さもあらんととてやみぬる人もあり。また、さまざまに推(すい)し、心得たるよしして、賢げにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。また、推し出だして、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ誤りもこそあれとあやしむ人あり。また、「異(こと)なるやうもなかりけり」と、手を打ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりとも言はず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意をはじめより心得て、少しもあざむかず、構えで出したる人と同じ心になりて、力を合はする人あり。

愚者の中の戯(たはぶ)れだに、知りたる人の前にて、このさまざまの得たる所、詞にても顔にても、隠れなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑(まど)へるわれらを見んこと、掌(たなごころ)の上の物を見んがごとし。ただし、かやうの推し測りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにはあらず。

 

現代語訳

 「達人の人を見る目は少しも間違える事があるはずがない。

 例えば、ある人が、世間に嘘を作り出して人をだます事がある、(その嘘を)素直にじじつと思って、その人の言うまま騙されてしまう人がいる。あまりにも深く信用してしまって、その上に煩わしい嘘の話の真意をよく理解した様な素振りをする人もいる。また、その嘘を聞いても、何とも思わないで、関心を持たない人もいる。また、少しは不審に思ったり信用するでもなく、頼る事も無く、思案している人がいる。また、真実らしくは思わないが、人の言う事であれば、そうかもしれないと思って、そのまま済ませてしまう人もいる。また、(その話の真実かどうか、その話の意図するところは何か、などについて、)色々と推測をめぐらし、わかったふりをして、賢そうなふりをしてうなずき、微笑んで見るけれども、その真相については、さっぱり解っていない人もいる。また、色々と推測して、嘘の正体を見抜いて「ああ、そうでもあろう」と思いながら(自分の考えが)間違っているかもしれないと危ぶんでいる人もいる。また「格別な事も無かったのだな」と、手を打って笑う人もいる。また、(嘘である事を)心得ながら、それを知っているとも言わずにそのはっきり分かっている点については、あれこれ言う事なく、知らない人と同じようにする人もいる。また、その嘘の意図するところをはじめから承知していて、少しもばかにする事なく、うそを作り出した人と同じになって、(人をだます事に)力を合わせる人が居る。

 このように、愚かな人同士で嘘を作り出して人をだますという戯れごとにおいてさえ、以上にあげたような、嘘の様々な受け取り方が、(その人の)詞においても顔によっても、隠すところなく知られるだろう。まして、明智の達人が道理に暗いわれら凡人を見るのは、掌(てのひら)の上の物を見るようなものだ。ただし、この様な色々と推測する事によって、仏法を説く為の方便説まで、普通の嘘に准じてかれこれと言ってはならない。」。

 

第百九十五段 地蔵を洗う貴人

 ある人、久我縄手(こがなわて)を通りけるに、小袖に大口(おほくち)着たる人、木造(きづく)りの地蔵を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣(かりぎぬ)の男二人、三人出で来て、「ここにおはしましけり」とて、この人を具して去(い)にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。

 尋常(よのつね)におはしましりける時は、神妙(しんべう)にやんごとなき人にておはしけり。

 

現代語訳

 「ある人が、久我縄手(こがなわて:京都市南区鳥羽から久我を経て京都府乙訓郡大山崎に至る道。縄手は長く続く真直ぐな道)を通っている時に、袖口を狭くした衣服に大口袴を来た人が、木製の地蔵を他の中の水に浸して、心を込めて丁寧に洗っていた。不審に思ってよく見ると狩衣の男二・三人が来て「ここにいらっしゃいました」と言って、この人を連れて立ち去った。久我内大臣(源基通)殿でございました。正気でいらっしゃった時は真に優れた立派なお方でございました。」。

 

 

第百九十六段 社頭の警蹕

 東大寺の神輿(しんよ)、東寺の若宮より帰座の時、源氏の公卿まゐられけるに、この殿、大将にて先を追はれけるを、土御門相国(つちみかどしやうこく)、「社頭にて警蹕(けいひつ)いかが侍べからん」と申されければ、「随身(ずいじん)のふるまひは、兵仗(ひやうぢやう)の家が知ることに候」とばかり答へ給ひけり。

 さて、後に仰せられけるは、「この相国、北山抄(ぼくざんせう)を見て、西宮(せいきゆう)の説をこそ知らざりけれ。眷属(けんぞく)の悪鬼・悪神を恐るるゆゑに、神社にて、ことに先を追ふべき理(ことわり)あり」とぞ、仰せられける。

 

現代語訳

 「東大寺の(鎮守神、手向山八幡宮の)神輿が上洛した際に、東寺の(鎮守神の)若宮八幡宮に安置され、お帰りになる時に、源氏の公卿が供奉するのが慣例であり参られた。この殿(源通基)右大将にて行列の先祓いをされていたのを、土御門相国(源定実)が、「神社の前で警蹕(けいひつ:天皇の出入り、貴人の通行、神事などの際に先払いが声をかけて、人々をいましめる掛け声)をさせるのは如何なものでしょうか」と申されると、「随身(従者)の所作進退は、武器を取って皇居を守る守護する武官の家が知る事です」とだけ答えられた。

 そのような状態で、源通基が後に仰せられたのは、「相国、北山抄を見て、西宮の説を知ってはおられない。その神社の祭神に付き従う悪鬼や悪神を恐れるが故に、神社にて、ことに先を祓うべき理(ことわり:道理)がある」と、仰せられた。」。

 ※北山抄(ほくざんせう)藤原公任著。十巻。有識故実書『西宮記』ともに重んぜられ、同署巻八巻に、「神社の行幸、大嘗会の御禊に准ず。ただし、社頭に至りては警蹕せず。なほ憚りあるべきか」とある。

『西宮記』西宮左大臣源高明著の有識故実書。同書において、社頭での警蹕すべきことを説いている文章は見当たらない。

 

 

第百九十七段 定額の女孺

 諸寺の僧のみにもあらず、定額(ぢやうがく)の女孺(によじゆ)といふ事、延喜式(えんぎしき)に見えたり。すべては数(かず)定まりたる公人(くにん)の通号にこそ。

 

現代語訳

 「定額と言うのは、諸寺の僧に限って用いられている名称ではなくて。女孺(によじゆ:後給に奉仕し、種々の雑務をした下級女官)と言う事が、延喜式(えんぎしき)に記載がある。定額とは全て定員が決まっている宮中に仕える地下の役人の共通した名称である。

 ※定額僧は、国分寺・官寺・定額寺・勅願寺などに一定数を限り補任された僧をさす。「定額」は、所持の定額僧に限りられているものではない事を考証した段である。

延喜式(延喜年間に編纂され始め延長五年(927)に完成した律令の施行細則。巻十二「中務省」に「皇后宮の定額の女孺九十人の装束の料」云々。巻十四「縫殿寮」二、「およそ定額の女孺已下、宮人已上の春秋の禄、請ひ受けて之を頒給せよ」とある。)に記載がある。

 

(鎌倉 光則寺の海棠)