第百八十九 不定と心得ぬるのみ、まことにて違わず
今日はその事をなさんと思へど、あらぬいそぎまず出で来てまぎれ暮らし、待つ人はさはりありて、頼めぬ人は来たり、頼みたる方の事は違(たが)ひて、思いよらぬ道ばかりはかなひぬ。煩はしかりつることは事なくて、やすかるべき事はいと心ぐるし。日々に過ぎ行くさま、かねて思ひつるには似ず。一年(ひととせ)の中(うち)もかくのごとし。一生の間もまたしかなり。
かねてあらまし、皆違(たが)ひ行くかと思ふに、おのづから違はぬ事もあれば、いよいよ物は定めがたし。不定(ふじやう)と心得ぬるのみ、まことに違はず。
現代語訳
今日はこれこれの事をしようと思ったが、それ以外の急な用事が出来てその事にとりまぎれて日を送り、待つ人は支障があって、当てにしていない人が来たり、期待していた方面の事は上手くいかず、思いがけない事ばかりが叶う。面倒だと思っていた事は何ともなくて、簡単だと思っていた事は実に心痛の種になる。日々が過ぎ行くように、前もって思っているようにはならない。一年の内にはこの様な事がある。一生の間も同様である。
前もって予想していた事は、みな違うように行くのかと思うと、たまには思うようにもなり、ますます物事は一律に決めがたい。不確かで定めないものと覚悟してしまうのだけが真実であって、外れることが無い。」。
(鎌倉 覚園寺舎利殿)
第百九十段 妻は持つな
妻というものこそ、をのこの持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ。「誰がしか婿に成りぬ」とも、また、「いかなる女を取りすゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるるわざなり。ことなる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添いゐたらめと、いやしくもおしはかられ、よき女ならば、この男をぞらうたくして、あが仏とまもりゐたらめ、たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家のうちをおこなひ治めたる女、いとくちをし。子など出で来て、かしづき愛したる、心優し。男亡くなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明け暮れ添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためにも半空(なかぞら)にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬなからひともならめ。あからさまに来て、とまりゐなどせんは、めづらしかりぬべし。
現代語訳
「妻と言うものこそ、男が持ってはならないものだ。「いつも一人で住んで」などと聞くのが、我が意を得たものだ。「誰それの婿になった」と、また、「これという女をいえに迎えて、同居している」などと聞けば、ひどく軽蔑の念がわいてくるものだ。(そして)特に優れた点のない女を良いと思って連れ添っているのだろうと。かりそめにも推測すると、(その妻が)良き女ならば、相手の男をいとしいものに思って、まるで持仏の本尊でもあるように大切にし、言って見れば、その程度の物なのだ、と思われる事であろう。まして、家の中を切りまわしてゆく女は、まことに感心しない。子供が出来て、大事に守り育てることが、情けない。相手の男が亡くなった後には、尼になって年を取る有様は、男が死んだ後まで見苦しい。
いかなる女であっても、いつも顔を合わせているのでは、実に気に食わず、嫌にも成ろう。それでは女にとっても去るに去れず、居るに居られずで不安な状態であろう。よそに住んでいて時々通い住んでこそ、年月が経っても絶えぬ間柄となるだろうが。男が不意にやって来て、泊まって行くなどと言うのは、(女には)新鮮な感じがするであろう。」。
(鎌倉 長谷寺ライトアップ)
第百九十一段 夜のみこそめでたけれ
「夜に入りて物のはえなし」といふ人、いとくちおし。よろずのもののきら・かざり・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎおよすけたる姿にてもありなん。夜は、きららかに花やかなる装束いとよし。人のけしきも、夜の火影(火影)ぞ、よきは良く、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂ひも、物の音も、ただ夜ぞひときはめでたき。
さして異なる事なき夜、うちふけて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。若きどち、心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、ことにうち解けぬべき折筋ぞ、褻(け)・晴れなくひきつくろはまほしき。よき男の、日暮れてゆするし、女も、夜ふくる程にすべりつつ、鏡取りて顔などつくろひて出づるこそをかしけれ。
現代語訳
「「夜に入って物の見栄えがしない」と言う人は情けない。多くの美しさ・装飾・色彩も、夜にこそ結構なものである。昼は、簡素で地味な姿であってもすむだろう。夜は、きらびやかで華やかな装束も良い。人の容姿も、夜の塔かに照らされているのが、良いのは一層よく見える。物を言う声も、暗い中で聞いているのは、(そして)その声に嗜みのあるのも、奥ゆかしいものだ。匂いも、楽器の音も、ただ夜はひときは優れて感じられる。
是と言って格別の事も無い夜に、更けてから(高貴な人の下に)参られる人は、綺麗でさっぱりとした服装をしていて、実に良い。若い者同士、互いに関心があって見る人は、時の区別などしないものだから、本当に気を許してしまそうな折にこそ,普段と晴れの区別なく身だしなみを良くしたいものだ。良い男は、日暮れて頭髪を洗って髪をすくのを、女も、夜が更け時分にそっと席を外して鏡を取って顔などを化粧してまた出仕するのは面白い。
(鎌倉 鶴岡八幡宮 御鎮座祭)
第百九十二段 神仏に夜参る
神仏(かみほとけ)にも、人のまうでぬ日、夜参りたる、よし。
現代語訳
「神社やお寺にも、人が参詣しない日や、夜に参詣する事は、良い事である。」。
第百九十三段 文字の法師・暗証の禅師
くらき人の、人をはかりて、その智を知れりと思はん、さらに当たるべからず。
つたなき人の、碁うつ事ばかりにさとく巧みになるのは、賢き人の、この芸におろかなるを見て、おのれが智に及ばずと定めて、よろづの道のたくみ、わが道を人の知らざるを見て、おのれすぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。文字の法師・暗証(あんしょう)の禅師、たがひにはかりて、おのれにしかずと思へる、ともに当たらず。
おのれが境界にあらざるものをば、争ふべからず、是非すべからず。
現代語訳
「物の道理が分からない人が、他人の事を押しはかって、その知恵の程度が分かったと思うのは、実に一向に当たるはずがないのだ。
つまらない人間が、碁を打つ事ばかりに頭が働いて(碁が)上手なのかは、賢き人の、この碁を打つというわざは、下手なのを見て、自分の知恵に及ばず決めつけてしまったり、あるいは、色々な技術の職人が、自分の専門にしていることを人が知らないのを見て、時分より優れていると思わない事は、大きな誤りとなる。仏典の研究や解釈にだけ勤めて、実践面をおろそかにしている僧と、坐禅などの実践にだけ精を出して教理の理解や研究をないがしろにしている僧は互いに相手の程度を推し量って、自分には及ばないと思う事は、どちらも当たらない。
自分の専門の範囲内にいない人を相手にして、その優劣を争ってはならないし、その良し悪しを論じてはならない。」。