第百七十六段 黒戸
黒戸は、小松御門(みかど)位につかせ給ひて、昔、ただ人におはしましし時、まさんば事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひける間なり。
御薪(みかまぎ)にすすけたれば、黒戸といふとぞ。
現代語訳
「黒戸の御所は、第五十八代光孝天皇が即位された、昔、(新皇であったが)天皇の臣下の貴族であった時、自ら料理をされており、忘れられない様にと、何時も炊事が出来るようにしていた場所である。薪で煤けていたので、黒戸御所と言われた。」。
第百七十七段 乾き砂子
鎌倉中書王(かまくらのちゅしよおう)にて、御鞠(おんまり)ありけるに、雨降りて後、いまだに庭乾かざりければ、いかがせんと沙汰ありけるに、佐佐木隠岐入道、鋸のくづを車に積みて、多く奉(たてまつ)りたりければ、一庭に(ひとにわ)に敷かれた、泥土(でいど)の煩ひ無かりけり。「とりためけん用意ありがたし」と、人感じあへりけり。
この事をある者の語り出だたりしに、吉田中納言の、「乾き砂子の用意やはなかりける」と、のたまいたりしかば、恥ずかしかりき。いみじと思ひける鋸のくづ、いやしく、異様(ことさま)の事なり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子をまうくるは、故実なりとぞ。
現代語訳
「鎌倉中書王(かまくらのちゅしよおう:後嵯峨天皇の第一皇子、宗尊新皇)が蹴鞠の会を催されたが、雨が降った後に、いまだ庭が乾かなかったならば、どの様にしようかと相談があった。佐々木隠岐入道は、鋸のおがくずを車に積み、多く持ち込まれて、庭一面に敷かれたので、ぬかるみにて困る事はなかった。「(おがくずを)取り集めておいた心遣いは奇特な事だ」と、人は感じあった。
この事を有る者が語り出して、吉田中納言(藤原冬方)の、「乾いた砂の用意はなかったのか」と質問され、恥ずかしい事だ。大したものだと思われる鋸のおがくずは、汚らしく、(敷き詰められた庭の景色も)異様である。庭での儀式を差配する者は、乾いた砂を用意しておくのは、しきたりになっている事だ。」。
第百七十八段 別殿の行幸には昼御座の御剣
ある所の侍ども、内侍所の御神楽を見て、人に語るとて、「宝剣をばその人ぞ持ち給ひつる」などいふを聞きて、内なる女房の中に「別殿の行幸には、昼御座の御剣(ぎよけん)にてこそあれ」と、忍びやかに言ひたりし、心にくかりき。その人、古き典侍(ないしのすけ)なりけるとかや。
現代語訳
「ある所の高貴な人の家に仕える家人どもが、毎年十二月に内侍所の庭前で、神器の一つである神鏡に奉納される神楽を見て、(傍にいる)人に、「三種の神器の一つである草薙剣はあの方がもたれている」などと言うのを聞いて、御簾の内に居た女房が、「別殿の行幸に御持たせになるのは、宝剣ではなくて清涼殿にある昼の御座所に置かれている御剣です」と忍びやかに言う(教えた)のを、奥ゆかしく感じられた。その人は、長年お仕えしている典侍であると言う事だ。」。
第百七十九段 那蘭佗寺の大門
入宋の沙門道眼(しゃもんだうげん)上人、一切経を持来(じらい)して、六波羅の辺り、やけ野といふ所に安置して、事に首楞厳経(しゆらうごんきよう)を講じて、那蘭佗寺と号す。その聖の申されしは、「那蘭佗寺は、大門北向きなりと、江師(がうそち)の説とて言ひつたへたれど、西域伝(さいゐきでん)・法顕伝(ほつけんでん)などにも見えず、さらに所見なし。江師は、いかなる才覚似て申されけん、おぼつかなし。唐戸(たうど)の西明寺は、北向き勿論(もちろん)なり」と申しき。
現代語訳
「中国の宋の国に行って来た道眼上人は、一切経を持ってきて、六波羅の辺りの、やけ野という所に安置して、特に(禅法の要義を説いた)首楞厳経を講義して、那蘭佗寺は、その大門が北向きであると、太宰権師大江匡房の説と言い伝えられるが、玄奘(げんじょう:がインドおよび中央アジアを旅した旅行記)西域伝・(東晋の法顕のインド旅行記の)法顕伝などには見られず、さらに所見が無い。江師は、どの様な学問上の知識についてもう差sれ手の歌、不信である。唐土の西明寺葉、(もんが)北向きであるのは勿論である
」と申された」。。
第百八十段 法成就の池にこそ
さぎちやうは、正月に打ちたる毬杖(ぎちやう)を、真言院より神泉苑(しんせんゑん)へ出だして、焼あぐるなり。「法成就の池こそ」とはやすは、神泉苑の池をいふなり。
現代語訳」。
「左義長(陰暦正月十五日及び十八日に行われる火祭りの行事。三毬杖とも言う)は、正月に打って遊んだ毬杖(木製の鞠を打って遊ぶための槌の形をした杖)を、真言院(朝廷において真言の御修法を行う道場)より、神泉院(平安京が造営された時に、内裏の南に接し営まれた天皇の遊園地)に出され、焼き上げる行事である。「法成就の池こそ」と囃すのは(『太平記』巻十二に、弘法大師が善女竜王を神泉苑の池に勧請して雨を降らせた話が記されている)、修法が成就のは神泉苑の池のことを言うのだ。」。
第百八十一段 たんばのこゆき
「『ふれふれこゆき、たんばのこゆき』といふこと、米(よね)つきふるひたるに似たれば、粉雪(こゆき)といふ。『たまれ粉雪』といふべきを、あやまりて、『たんばの』とはいふなり。『垣や木のまたに』とうたふべし)と、ある物知り申しき。昔より言ひけることにや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るに、かく仰せられける由、讃岐典侍(さぬきのすけ)がにっきにかきたり。
現代語訳
「「『ふれふれこゆき、たんばのこゆき』と言う事は(雪の降るのが)※ついているふるいにかけた米の粉に似ているので、粉雪と言う。『たまれ粉雪』と言うのを、誤って、『たんばの』と言うのだ。(つづけて)『垣や木のまたに』と歌うのだ」と、ある物知りが申した。昔から言っている事だ。鳥羽天皇が幼くて、雪の降るのを、この様に仰せられた事いが、讃岐典侍(さぬきのすけ:藤原隆親)が日記に書いている。
第百八十二段 鮭の白乾
四条大納言隆親卿、乾鮭(からざけ)といふものを供御(ぐご)に参らせられたりけるを、「かくあやしき物、参るやうあらじ」と、人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚、参らぬ事にてあらんにこそあれ、鮭の白乾(しらぼし)、なでふ事かあらん。鮎の白乾は参らぬかは」と申されけり。
現代語訳
「四条大納言卿(藤原隆親)、乾鮭(からざけ:鮭のはらわたを除き、塩を用いずに乾燥させたもの)という物を天皇の食事に差し上げられたのを「このようないやしい物を、差し上げると言う法はあるまい」と、ある人が申し上げるのを聞いて、大納言は、「鮭と言う魚は、差し上げてはいけないと決まっているなら悪いが、鮭の白乾は、何のさしつかえがあろうか。鮎の白乾は差し上げない事か」と申された。」。