鎌倉散策 『徒然草』第百五十六段から第百六十一段 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第百五十六段 大臣の大饗

 大臣の大饗(だいきゃう)は、さるべき所を申しうけておこなう、常の事なり。宇治左大臣殿は、東三条殿にておこなはる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事の寄せなけれども、女院の御所など借り申す、故実なりとぞ。

 

現代語訳

 「大臣の大饗(だいきやう:大臣に任ぜられた人が、披露のため他の大臣以下殿上人などを招いて催す宴会)は、然るべきところに願い出て借り受けて行うのが、常識の事であった。宇治左大臣殿

(うじのさだいじんどの:藤原頼長)は、東三条殿にて行われる。ここは内裏であったため、左大臣が願い出られたので、天皇は他所へ出かけられた。これと言う縁故が無くとも、女院(天皇の生母・准母・内親王・先帝の後宮)などの御所も大臣がお借りする事がある。これが古来からの習慣・慣例であるという。」。

 ※藤原頼長。藤原北家、摂政関白太政大臣藤原忠座音の三男。久安五年(1149)、三十歳で左大臣に任ぜられ、後の崇徳上皇と保元の乱を起こして敗れ、流矢に当たり敗死する。博識多才で、『愚管抄』巻四に「日本第一大学生、和漢の際に富みて」と評されている。『代記』においては、私的報復の記録も多く記され、評価が分かれる。東三条殿は二条通り南、町口通りの西に、南北二町を占めていた邸宅で、摂関家の首長が伝領する所。後に儀礼的な場として使用された。頼長は、保延二年(1136)十二月に内大臣に任ぜられた時、東三条殿は内裏ではなかったので、大饗を行っている。左大臣に任ぜられた時は、どこで大饗を行ったか不明である。

 

(京都御所 紫宸殿)

第百五十七段 心は事に触れて来たる

 筆を執(と)れば、物書かれ、楽器を取れば音をたてんと思ふ。盃(さかづき)を取れば酒を思ひ、賽(さい)を取れば攤(だ・たん)打たん事を思ふ。心は必ず事に触れて来たる。かりにも不善の戯(たはぶ)れをなすべからず。

 あからさまに聖教(しやうげう)の一句を見れば、なんとなく前後の文も見ゆ。卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。かりに今、この文をひろげざらましかば、この事を知らんや。これすなはち触るる所の益なり。心さらに起こらずとも、仏前にありて数珠を取り経を取らば、怠るうちにも、善業(ぜんごふ)おのづから修せられ、散乱の心ながらも繩床(じようしやう)に座せば、覚えずして禅定(ぜんぢやう)成るべし。

 事(じ)・理(り)もとより二つならず。外相(げさう)もし背(そむ)かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

 

(京都御所)

現代語訳

 「筆を執ると物を書き、楽器を取れば音をたてようと思う。盃を取れば酒を思い出し、サイコロを取れば筒に入れて打とうと思う。必ず心は何事かに関連して生じてくる。かりにも善行の無い戯れを行ってはならない。かりそめにでも仏教の経典の一句を見れば、何となく前後の文も理解できる。にわかにして長い間の誤りを改める事もある。かりに今、この経文を広げなければ、この事を知る事も無い。これはすなわち(外界の事象に)触れる所の利益である。心が一向に起こらずとも、仏前にて数珠を取って経を読めば、いい加減にしているうちにも、五戒や十善を守るなど、後の良い結果をもたらす行為として実践でき、六境(肉体と思考との作用の対象)に心を奪われて、心が一時も安定しないながらも、(禅僧が坐禅の際に用いる)木の枠に縄を張り巡らした腰掛のに座れば、思いもせずに心を一点に集中し、雑念を退けて思索して審理を悟ることが出来よう。

 我々が知覚する事の出来るあらゆる現象と、その本体である真理とは、元来、別々の物ではなく、一体の物ある。従って、外に現れた姿が法則に反していなければ、内心の悟りは必ず出来上がってくる。だからそうした形式的な行為について、その不信心を、ことさらに言い立ててはならない。

 

(京都 高瀬川 高野川)

第百五十八段 凝当

 「盃の底を捨てつることは、いかが心得たる」と、ある人の尋ねさせ給ひしに、「凝当(ぎようたう)と申し侍るは、底に凝(こ)りたるを捨てつるにや候ふらん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道(ぎよだう)なり。流れに残して、口のつきたる所をすすぐなり」とぞおほせられし。

 

現代語訳

 「「盃の底に飲み残した酒を捨てることは、如何に理解しているか」と、ある人が尋ねられて、「凝当(ぎようたう:盃に飲み残した酒を捨てるのを、その当時、凝当と言い慣わしていたが)と申すは、底にたまっている酒を捨てる事である」と申したので、「この質問したある人は、「そうではない。実は魚道(ぎょうたう)が正しいのだ。盃に酒のしずくを残し、自分の口の付いた酒を洗い清めるのだ」と言われた。」

 ※『壒嚢鈔(あいのうしょう)』巻六には、「余瀝(よれき)を以って盃痕を洗ふ。是を魚の旧道を過ぐる喩(たとえ)る也。仍(よ)て魚道といふ也」とある。

 

第百語十九段 みな結び

 「みな結びといふは、糸を結び重ねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たればいふ」と、あるやんごとなき人、おほせられき。「にな」といふは誤りなり。

 

現代語訳

 「(組みひもの結び方)みな結びと言うのは、糸を結び重ねたものだが、蜷(みな)といふ貝に似てそう言うのだ」とある高貴な方が、仰せられた。「みな」を「にな」と言うのは間違いである。」。

 

第百六十段 言葉の使い方

 門に額かくるを、「打つ」といふはよからぬにや。堪解由小路二品禅門(かでのこうぢにほんぜんもん)は、「額かくる」とのたまひき。「見物の桟敷打つ」もよからぬにや。「平張(ひらばり)打つ」などは、常の事なり。「桟敷かまふる」などいふべし。「護摩たく」」と言ふもわろし。「修する」「護摩する」などいふなり。「行法(ぎやうぼう)も、法の字を清(す)みていふ、わろし。濁りていふ」と、清閑寺(せいかんじ)僧正おほせられき。常にいふ事に、かかる事のみ多し。

 

現代語訳

 「門に額を飾るのを「打つ」と言うのは良くないのであろうか。堪解由小路二品禅門(かでのこうぢにほんぜんもん:藤原経)は、「額を懸ける」と仰った。「見物の桟敷打つ」も良いのだろうか。「平張(天幕)打つ」とは普通に言う事だ。「桟敷構える」などとも言う。「護摩を焚く」と言うのも良くない。「修する」「護摩する」などと言う方が正しい。「行法(ぎょうぼう)も、法の字を濁音無しの「ほう」と言うのは正しくない。濁音で「ぎょうぼう」と言うべきである」と清閑寺僧正(権僧正道我:どうが。兼好の歌友)が仰った。普段口にしている事に、この様に間違った使い方が多い。」。

 

第百六十一段 花のさかり

 花のさかりは、冬至より百五十日とも、時正(じしやう)の後、七日ともいへど、立春より七十五日、おほやう違はず。

 

現代語訳

 「桜の花のさかりは、(二十四節句の)冬至から百五十日後ともいう。昼夜の長さが等しい日の後、七日とも言うが、立春(春の初めの日)より七十五日と、だいたい当たっている。」。