鎌倉散策 『徒然草』第百五十一段から第百五十五段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第百五十一段 老人の芸

 ある人のいはく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし。老人の事をば、人もえ笑はず。衆に交わりたるも、あいなく見ぐるし。大かた、よろづのしわざは止めて、暇(いとま)あるこそ、めやすくあらまほしけれ。世俗の事に携(たづき)はりて生涯を暮らすは、下愚かの人なり。ゆかしく覚えん事は、学び聞くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして止むべし。もとより望むことなくして止まんは、第一の事なり。

 

現代語訳

 「ある人が言うには、五十歳になるまでに上手と言われる域に達しなければその芸を捨てるべきであると。(その年では)励み習う将来もない。老人のすることを、人もそう笑う訳にもいかない。老人が大勢の人々に交わっているのも、その場にそぐわずに感じて、みっともなく見苦しい。大かた(その年になったら)多くの仕事も止めて、暇であるため、見た目にも良くそうありたいものだ。世俗の事に携わり生涯を暮らすのは、最も愚かな人である。知りたいと思う事は、(人に)学び聞くといっても、その大体の様子を知るならば、はっきりしない点が無くなったという程度に止めておくがよい。最初から知りたいという望みを起こすことなくして、済ませるとしたら、(それが)一番良い事なのだ。」。

 

第百五十二段 資朝の逸話(一)

 西大寺静然(じょうねん)上人、腰がまがり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏(だいり)へ参られたりけるを、西園寺内大臣、「あなたふとのけしきや」とて、信仰の景色ありければ、資朝卿これを見て、「年の寄りたるに候」と申されけり。

 後日に、むく犬のあさましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この気色、たふとく見えて候」とて、内府へ参らせられたりけるぞ。

 

現代語訳

 「(南都七大寺の一つ)西大寺の長老静然上人は、腰がまがり、眉は白く、本当に徳が備わっている様子で、内裏へ参られたのを、西園寺内大臣(西園寺実衡)は、「ああ何とも尊いご様子でしょう」と言って、上人を信仰する様子が見えたので、資朝卿(日野資朝)は、これを見て、「年を取っているまでの事でございます」と申された。

 後日に、むく毛の犬の酷く年を取ってやせ衰えて、毛が剥げているのを人にひかせて、「この犬の様子は、尊く見えております」と、大夫(内大臣の唐名)へ差し上げられた。

 ※西大寺静然上人。奈良市西大寺町にある南都七大寺の一つ西大寺の長老静然上人。西大寺は称徳天皇の勅願により、天平神護元年(765)に開基。鎌倉時代に叡尊が真言律宗として再興し、戒律の道場となる。西園寺実衡は、実兼の孫で公衡の子。元弘四年(1290)四月に内大臣となる。権中納言日野資朝は、後醍醐天皇により北条氏追討計画の中核として活躍。計画が露見し、捕縛された後に佐渡に配流となる。後に斬首された。

 

(京都 鴨川 六波羅蜜寺)

第百五十三段 あな羨まし―資朝の逸話(二)

 為兼(かねため)大納言入道召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅(ろくはら)へ率(ゐ)て行きければ、資朝卿、一条渡りにてこれを見て、「あな羨(うらや)まし。世にあらん思い出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。

 

現代語訳

 「為兼(かねため)大納言入道が逮捕されて、武士どもがうち囲んで、六波羅探題へ引き連れ行くところ、資朝卿が、一条大路辺りでこれを見て、「ああ羨ましい。この世に生きている思い出として、この様になりたいものだ」と言われた。

 ※為兼大納言入道、京極為兼、藤原定家の曾孫。延慶応三年(1310)に権大納言に任ぜられ正和二年(1313)出家歌人として京極派の中心人物として活躍。六波羅(ろくはら)探題府、京都の守護・公卿政権の監視・三河以西諸国の政務を掌握した役所。

 

(京都 東寺)

第百五十四 かたわ者たち―資朝の逸話(三)

 この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたわ者どもの集まりゐたるが、手も足もねじゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に異様(ことやう)なるを見て、とりどりにたぐひなりき曲裳のくせもの)なり、もつとも愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくくいぶせ覚えければ、ただ素直に珍しからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折(きょくせつ)あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かの方はを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられけり。

 さもありぬべき事なり。

 

現代語訳

 「日野資朝は、東寺(京都市南区九条大宮西にある教王護国寺の通称)の門に雨宿りをしていると、障害者が多く集まっており、手も足もねじ曲がり、反り返って、誰もが満足なところが無く異常な様子であるのを見た。それぞれに比べようがない奇妙なやつらばで、大いに目を楽しませるに足りると思い、じっと見ているた。すぐにその其の興味もさめて醜く不快に思えてが、ただ素直で物珍しくないのが一番良いと思い、帰った後に、この日頃、植木を好んで、異様に枝や幹が曲がりくねったのを探し求めた。目を喜ばせたのは、あの障害者達を愛する様なものだと、興味が覚めて、鉢に植えていた多くの木を、みな掘り起こし捨てられた。

 いかにもそうありそうなことだ。

 

第百五十五段 死期はついでを待たず

 世にしたがはん人は、まづ機嫌を知るべし。ついで悪しき事は、人の耳にもさかひ、心にもたがひて、その事成らず。さやうの折節(をりふし)をこころえべきなり。ただし、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、ついで悪(あ)しとて止むことなし。生・住・異・滅の移り変わる実(まこと)の大事は、たけき河のみなぎり流るがごとし。しばしも滞(とどこほ)らず、ただちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果たし遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止まじきなり。

 春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏よりすでに秋はかよひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、持ちとるついで甚だはやし。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期(しご)はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つ事しかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟(ひかた)遥かなれども、磯より潮の満ちつるがごとし。

 

現代訳語

 「世間の大勢に順応していこうと思う人は、まず物事の上手く行く時期という物を知らないといけない。事が運んでいく順序に叶っていない事は、人の言葉にも逆らい、心にも合わなくて、その物事が達成されない。そのような時期をも心得ておかなければならない。ただし、病にかかり、子供を産み、死ぬ事のみは、次期の良し悪しにはかかわらず、その時期がまだ来ていないといって、止めにする事は無いのだ。物が生じ、生じた物が存続し、存続している物が絶えず変化し、それが、やがて滅び去ってゆくという、万仏が全て変転して止むことが無い、この重大な事実は、水勢の激しい河がみなぎるように流れるのと同じである。少しも滞らず、まっしぐらに実現してゆくものである。そうであるなら、仏道修行にしても、世俗の事を処理するにしても、必ず達成しようと思う事は次期を問題にすべきでない。あれこれと用意などせず、(そこで)足を踏み止めるべきではない。

 春が過ぎて後に夏になり、夏が終わって秋が来るのではない。春のうちに夏の気配を起こし始め、夏よりすでに秋の趣は入り来たり、秋はそのまま寒くなり、十月には小春の天気になる。草も青くなり、梅も蕾をつける。木の葉の落ちるのも、まず葉が落ちて芽を出すのではない。葉の下から芽が出て、その芽が生育してゆく力にたえきれないで落ちてゆくのである。新しい変化を迎える正気を、木の内部に準備しているので、待ち受けて交替する順序は非常に早く行くのである。生れ・老い・罹患し・死が移り来る事は、四季の移り変わりよりももっと早いのである。四季の変化は定まった順序である。死期は順序通りにやってこない。死は前の方より来るとは限らず、人が気が付かない内に、前もってその背後に迫っているのだ。人は皆死が訪れることを知っているが、死を予期する気持ちが切迫していないうちに、死は思いがけずにやって来る。沖の方の干潟は遥か彼方に見渡されているけれども、足元の磯から潮が満ちてくるようなものだ。」。