鎌倉散策 『徒然草』第百四十五段から第百五十段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第百四十五段 落馬の相

御随身秦重躬(みずいしんはたのしげみ)、北面の下野入道信願(しもつけのにふだうしんぐわん)を、「落馬の相ある人なり。よくよく慎み給へ」と言ひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願、馬より落ちて死ににけり。道に長じぬる一言、神のごとしと人思へり。

さて、「いかなる相ぞ」と人の問ひければ、「きはめて桃尻にして、沛艾(はいがい)の馬を好みしかば、この相をおほせ侍りき。いつかは申し誤りたる」とぞ言ひける。

 

現代語訳

 「後宇多上皇に仕えていた御随身(上皇・摂関等の貴人の外室の際、警護のため勅撰により付けられた近衛の官人)秦重躬は、北面(御所北面を警護する武士)の下野国の入道信願に、「落馬の相がある人である。大変ご注意ください」と言うのを、(人々は)一向にあてにならない事と思っていた。しかし、信願は、馬より落ちて死んでしまった。その道に長けた人の一言は、神のごときと人と思った。

 さて、「いかなる相なのか」と人に問いかけられれば、「きわめて桃尻(桃尻:馬に乗ることが下手で、馬の鞍にしりが安定していないのを言う)で、性質が荒く、蹴り上げがる癖のある馬を好んでいたので、この相を当てたのです。何時私が言い誤った事がありますか」と言われた。」。

 

 

第百四十六段 兵仗の難

 明雲座主(めいうんざす)、相者にあひ給わひて、「おのれ、もし、兵仗の難(ひょうじょうのなん)やある」と田恒給ひければ、相人、「まことにその相おはします」と申す。「いかなる相ぞ」と尋ね給いければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、かりにもかく思し寄りて尋ね給ふ、これ既に、その危ぶみのきざしなり」と申しけり。

 はたして、矢にあたりて失せ給いにけり。

 

現代語訳

 「明雲座主(めいうんざす:権大納言久我顕道の次男)は人相見にお会いになって、「自身に、もしかして武器での危難を受ける事がありはしないか」と尋ねられた。人相見は、「まことにその相はございます」と申した。「どの様な相なのか」と尋ねれると、「傷害の心配がおありになるはずもない御身に、もしもこのように思いつかれて尋ねられたのでしょうか、これは既に、その危険に合うという前兆でございます」と申した。」。

 寿永二年(1183)十一月十九日、明雲座主は矢に当たり亡くなられた。

※明雲座主(めいうんざす:権大納言久我顕道の次男。五十五代及び五十七代の天台座主で、『平家物語』巻二に、「無双の碽徳〔せきとく〕、天下第一の高僧にておはしければ、君も臣もたつとみ、天王寺・六勝寺の別当をもかけ給ひけり」とある。

 明雲座主は木曽義仲が後白河法皇の御所を攻撃した時、流矢に当たり落命し、首を取られた。享年六十九歳。『愚管抄』巻五には、仁安二年(1167)、明雲が天台座主を争って快修と戦ってそのため多くの相が命を失ったときのことに触れ、「すべて積悪おおかるひとなり」ときしている。「無双の碽徳、天下第一の高僧」と仰われる一方において、「積悪多かる人」と言う批評もなされていた。なお、『源平盛衰記』巻三十四によれば、この時の相人を信西(藤原通憲)と言う事になるが、信西は名運賀天台座主になる以前に没している。

 

(京都 比叡山延暦寺)

 

第百四十七段 灸治の跡

 灸治、あまた所になりぬれば、神事にけがれありといふ事、近く人の言ひ出だせるなり。格式(きやくしき)等にも見えずとぞ。」。

 

現代語訳

 灸の治療の後に、いたるところに跡が残るなら、神事を行うには穢れがあるとされる事は、近年になって人が言いだした事である。法規や諸規定を記した書には見られない。

 ※「灸治」は灸をすえて病気を治すことで、『拾芥沙』「触穢部』に、「灸治の穢れは七日、灸を居うるの人は三日、但し、膿血出づる間、「神社に参るべからず。是師せつなり」とあり『触穢問答』(卜部兼俱答)に、「問ふ。灸治の穢れ如何に。答ふ。灸三ケ所までは大社・宮寺共にこれ憚らず。四か所に及べばこれをはばかる」とある。」。

 

第百四十八段 三重の灸

 四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。

 

現代語訳

 「四十歳を過ぎる人は、体に灸をするうえで、灸を据えるべき部分として定められた灸穴を焼かないと、のぼせる事がある。必ず定められた灸穴に灸をすべきだ。

 ※三里とは、灸を据えるべき部分として定められている灸穴の一つで、左右の膝頭の下で、外側の少し窪んだ所。『万安方(まんあんぼう)』(1315)成立には、「明堂に曰はく、人、年三十巳上、もし三里に灸せざれば、気上り目を衝(つ)かしむ。三里は以(もつ)て気を下ぐる所なり」とある。

 

第百四十九段 鹿茸

鹿茸(ろくじょう)を鼻にあてて嗅ぐべからず。小さき虫ありて、鼻より入りて脳を食むといへり。

 

現代訳語

 「鹿の角が落ちたその後から生えてくる新しい角を鼻にあてて匂いを嗅いではならない。小さな虫がいて、鼻より入り、脳を蝕むという。」。

 ※鹿茸(ろくじょう)は、夏至の頃鹿の角が落ちると、その後からすぐに生える新しい角を言う。「袋角」とも言い、取って乾燥させて、強壮剤その他の薬用に供する。

 明の李時珍書『本草綱目(本草綱目)』に、この段に記されているのとほぼ同じ説が記されている。この書は、一五七八年の成立であるが、そこに記されている説は、それ以前から伝えられていたもので、兼好も中国から伝えられたこの種の知識によって記したものと考えられる。

 

(奈良 春日大社)

第百五十段 上手の中に交じりて学べ

 能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と、常に(いつも)言ふめれども、かくいふ人、一芸も習ひ得ることなし。いまだ堅固(けんご)かたほなるより、上手(じょうず)の中に交じりて、毀(そし)り笑はるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、天性、その骨(コツ)なけれども、道になづまず、みだりにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、終(つひ)に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双(並び)なき名を得ることなり。

 天下の物の上手と言へども、始めは、不堪(ふかん)の聞こえもあり、無下の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道のおきて正しく、これを重くし、放埓(はうらつ)せざれば、世のはかせにて、万人の師となる事、諸道かはるべからず。

 

(鎌倉 鶴岡八幡宮舞殿 丸山稲荷神社)

現代訳語

 「芸能を身に付けようとする人が「上手く出来ない内は、なまじっか人に知られないようとし。内々に隠し習得して人前に出ると言うのが、たいそう奥ゆかしい」と、常に言うが、この様に言う人は、一芸も身につく事は無い。未だ全く芸が未熟なうちから、上手い人の中に交じって、誹られ笑われても恥じず、平気でおし過ぎて稽古に精を出す人は、生まれついて、その道の要所をつかむことは出来ないが、中途で停滞することない。勝手気ままにせずに、齢を送れば、天分があっても芸に打ち込まない人よりは、最期には世間から名人上手と認められる境地に至る。人徳も備わり、世間の人に認められ、並びなき名声を得ることが出来る。

 天下に聞こえた芸能の達人でも、始めは、下手であるとの評判もあり、何とも言えない恥をかいた事もあった。しかし、その様な人は、その芸能において定められた戒めを正しく守り、これに重きを置いて勝手気ままな振舞いをしなければ、一世の権威として指導者となり、多くの人の師となる。どの道においても変わることはない。