鎌倉散策 『徒然草』第百四十一段から第百四十四段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第百四十一段 尭蓮上人のこと

 悲田院尭蓮上人(ひでんゐんのげうれんしやうにん)は、俗称は三浦のなにがしとかや、双なき武者なり。故郷(ふるさと)の人の来たりて物語すとて、「吾妻人(あずまびと)こそ言ひつつる事は頼まるれ。都の人は、ことうけのみよくて、実(まこと)なし」といひしを、聖(ひじり)、「それはさこそおぼすめども、おのれは都に久しく住みて、なれて見侍るに、人の心劣れりとは思い侍らず。なべて、心柔らかに情けある故に、人の言ふほどの事、けやけく否(いな)びがたくて、よろづえ言ひ放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思はぬど、乏 (とも)しくかなはぬ人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は、わがかたなれど、げには、心の色なく、情けおくれ、ひとへにすくよかなるものなれば、はじめより否といひて止みぬ。にぎはひ豊かなれば、人には頼まれるぞかし」と、ことわられ侍りしこそ、この聖、声うちゆがみ、あらあらしくて、聖教(しやうげう)の細やかなる理(ことわり)、いと弁へずもやと思ひしに、この一言の後、心にくくなりて、多かる紂なかに、寺をも住持せらるるは、かく柔らぎたる所ありて、その益(やく)もあるにこそと覚え侍りし。

 

(京都 東寺)

現代語訳

 「悲田院尭蓮上人(ひでんゐんのげうれんしやうにん:京都市中京区正親町の大応寺あたりにあった寺で悲田院は貧しい病人や孤児を治療・救済する施設名。尭蓮上人はその悲田院の住職とされるが未伝承)は、俗称を三浦の某とか言って、並ぶ者のない武者であった。故郷の関東の人がやって来て上人に話された。「関東の人の言う事こそ信頼できる。都の人は、口先の請合いだけはよくするが、誠実さがない」と言うのを、上人は「あなたはそうお思いになられるだろうが、私は都に長く住んでいるが、(都の人と)なれ親しんで見ると、都の人の心が劣るとは思わない。一般に(都の人は、)心柔らかく情けがある故に、人の言うように、きっぱりとは断りかねて、思った事を遠慮なく言うことが出来ず、断れず請け負ってしまう。だまそうなどとは言うのではなく、貧しく不如意な人ばかりいるので、自然と本意通りに行かない事が多いのである。関東の人は、私の同胞であるが、実のところ心の優しさが無く、人情味に乏しく、ひとえに剛直でぶっきらぼうな者どもで、出来そうもない事は、最初から嫌だと言って、それっきりにしてしまう。(しかし、)富に栄えて裕福な(都な)ので、人には信頼されるのである」と、事の道理を明らかにされたので、この聖は、言葉には(関東の)なまりがあり、荒々しくて、仏典の微妙な教理を十分には分別し理解していないのではないかと思っていたが、この一言の後、(この聖は)奥ゆかしくなり、僧侶も大勢いる中で、悲田院の住職として管理されるようになったのは、この様に心の柔らかな人柄になった事が、その要因でもあるのだろうと思われた。」。

 

(京都御所)

第百四十二 恩愛の道と政治

 心なしと見ゆる者も、よき一言いふものなり。ある荒夷(あらえびす)の恐ろしげなるが、かたへにあひて、「御子(おんこ)はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答ええしかば、「さては、もののあはれは知り給はじ。情けなき御心にぞものし給ふらんと、いと恐ろし。子ゆゑにこそ、よろづのあはれは思ひ知らるれ」といひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かかる者の心に慈悲ありなんや。孝養(かうよう)の心なき物も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。

 世を捨てたる人の、よろづのするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、よろづにへつらひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは僻事(ひがごと:道理に合わない事)なり。その人の心になりて思へば、まことに、かなしからん親のため妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人(ぬすびと)を縛(いまし)め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑(う)ゑず寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒(つね)の産なき時は、恒の心なし。人、きはまりて盗みす。世治らずして、凍餒(とうたい)の苦しみあらば、科(とが)の者絶ゆべからず。人を苦しめ法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。 

 さて、いかがして人を恵みむべきとならば、上のおごり費やす所をやめ、民を撫で、農を勧めば、下に利あらん事、疑ひあるべからず。衣食尋常(よのつね)なる上に僻事せん人をぞ、まことの盗人とはいふべき。

 

(京都 法観寺の塔)

現代語訳

 「人間らしい心を持っていないと思われる者も、素晴らしい言葉を言うものである。ある東国の恐ろしげに見える武士が、そばにいる人に向かって、「子供はおりますか」と尋ねると「一人もおりません」と答えたところ、それでは、物のあはれという物をお知りにならないでしょう。薄情な御心でいらっしゃるのであろうと、実に驚嘆すべきと思います。子供がいること事で、あらゆる物の情愛を思い知るのです」と言った言葉は、その通りである。親子・夫婦・兄弟などにおける愛情以外では、この様な物の慈悲の心あろうか。親に孝行を尽くす心の無い者も、子供を持ってこそ、親の愛情は思ひ知らされる。 

 世を捨てた遁世者は、すべての親族・縁者も無くただ一人であるが、、総じて、自分を束縛する物が多い人は、何かにつけて人にへつらい、欲が深いように見えるが、むやみに軽蔑するのは道理に合わない事である。そのような人の心になって思えば、本当に、いとしく思う親や妻子のためには、恥をも忘れて、盗みもしかねない事である、だから、盗人を縛め、悪事だけをとりたてて罰しようとするよりは、世の中の人を飢えさせないように、冬は寒くないように、政治をして欲しい物である。人間は、一定の生業を持たない時は、一定の心を持たない。人間は、生活に追い詰められると盗みを行う。世の中が治まらず、飢えと寒さの苦しみがあれば、罪を犯す者が絶えることはない。人間を苦しめる法律を犯させて、それを罰する事は、可哀そうな事である。

 それでは、どの様にして民に恩恵を与えればよいかと言うと、上に立つ者が贅沢して浪費する事を止め、民を愛し、農業を勧めれば、下々の物に利益がある事は、疑いが無い事である。衣食が人並になった上で、道理に外れた行いをする者を、本当の盗人と言いうべきである。」。

 

(鎌倉材木座 辻の薬師)

第百四十三段 人の終焉の有様

 人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただしづかにして乱れずと言はばこ心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく異(こと)なる相を語りつけ、いひし言葉も、ふるまいも、おのれが好む方にほめなすこそ、その人の日来(ひごろ)の本意にもあらずやと覚ゆれ。

 この大事は、権化(ごんげ)の人も定むべからず。博学の士もはかるべからず。おのれの違(たが)ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。

 

現代語訳

 「人の終焉の様相が素晴らしかったことなど、人の話を聞くが、ただ静閑にして取り乱す頃なく奥ゆかしく感じられるであろうが、愚かな人は、不思議な事に普通とは違った様相を語り添え、その人がいまわの際に言った言葉も、振舞いも、自身の好む方に引きつけて褒めるのは、当人の普段の志していた事と違ってはいないかと思える。

 この臨終と言う人生の一大事は、衆生を救うために、神や仏が仮にに姿を変えて、この世に表れた、人の良し悪しを判定する事は出来ない。博学の人もその是非を脇からあれこれと推察してはいけない。その本人さえ取り乱す事が無ければ、それで良く、(臨終の良し悪しは)他人の見聞によって決めるべき事ではない。」。

 ※仏教が人々の心を深く支配した中世において、死は人生の一大事であり、臨終の様子がどうであったかは、最大の関心事であった。中世の説話集の類には、臨終にあたって、西に紫雲がたなびき、異香が室に満ち、空に音楽が聞こえたとか、念仏を唱えながら死んだ舌の先から葵蓮の花が生い出したとか、不思議な話を色々と書き記されている。

 

(京都栂尾 高山寺)

第百四十四段 阿字本不生

 栂尾(とがのを)の上人、道を過ぎ給ひけるに、河に馬洗ふをのこ、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止まりて、「あなたふたとや。宿執開発(しゆくしふかいはつ)の人かな。阿字阿字(あじあじ)と唱ふるぞや。いかなる人の御馬ぞ。あまりにたふとく覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿(ふしやうどの)の御馬に候」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生(あじほんふしょう)にこそあなれ。うれしき結縁(けちえん)をもしつるかな」とて、感涙をのごはれけるとぞ。

現代語訳

 「栂尾の(明恵)上人が道を通られた時に、河で馬を洗う男が、「あしあし」と言っていたので、上人が立ち止まり、「あなたふとや(ああ尊い事だ)。貴方は、宿執開発(しゆくしふかいはつ:前世から心に執着してはなれない善根功徳が原因となって、現世で善果を結んだ)人ではないか。阿字阿字(あじあじ:梵語十二母韻の第一)と唱えておりますぞ。この馬はいかなる人の御馬でありまか。あまりに尊く思われる事だ」と尋ねられると、「府生殿の御馬であります」と答えられた。「これはまた結構な事だ。阿字とは仏教の府生不滅の心理、阿字本不生を示しております。貴方にここであえた事(結縁)がうれしい」と言って、感涙の涙をぬぐわれたという事だ。」。

 ※「あしあし」とは、馬の脚を上げさせようと思って、言った言葉。「宿執開発」は梵語十二母韻の第一の音で、一切の言葉の根本とされた。また、仏教の深い教えを表すものとして尊重されていた。阿字門に入り、または阿字門を開けば、一切の言葉の根本即時に一切本府生の義を悟るとも説かれている。「府生殿」は六衛府及び検非違使庁の下級役人を示す。阿字本不生は、密教の根本の教えで、一切の存在は元々不生不滅であるという真理を、阿字が表しているとする思想。

 明恵上人は諱(いみな)を高弁と称し、紀伊の国に生まれた。高尾山の文覚に師事し、京都市右京区梅ケ畑高雄町の栂尾に高山寺を開き、華厳宗を中興した。後鳥羽院・建礼門院に戒を授け、北条泰時に厚く崇敬された。この段では、愚かしいまでに純粋で敬虔な仏教弟子であり、釈迦の在世中に生まれ合わせなかった事を悲しみ、仏の教えを忠実に実践する以外に余念のなかった明恵上人の人柄を彷彿させる話である。

 

(京都栂尾 高山寺)