鎌倉散策 『徒然草』百三十段から第百三十四段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

百三十段 争いを好む失

 物に争はず、おのれをまげて人にしたがひ、我が身を後(のち)にして、人を先にするにはしかず。

 よろづの遊びにも、勝負(かちまけ)を好む人は、勝ちて興あらんためなり。おのれが芸のまさりたることを喜ぶ。されば、負けて興なく覚ゆべき事、また知られたり。我負けて人を喜ばしめんと思はば、さらに遊びの興なかるべし。人に本意なく思わせて、わが心を慰まん事、徳にそむけり。むつましき中に、戯(たはぶ)るるも、人をはかりあざむきて、おのれが智のまさりたる事を興とす。これまた礼にあらず。されば、はじめ興宴より起こりて、長き恨みを結ぶたぐひ多し。これみな、争ひ好む失なり。

 人に勝らんこと思はば、ただ学問して、その智を人にまさらんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に戈(ほこ)らず、ともがらに争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、理をも捨つるは、ただ学問の力なり。

 

現代語訳

 「何事についても人と争わず、自分をまげて人に順応し、わが身を後にして人を先にするに越したことはない。すべての遊びにも、勝負を好む人は、勝つ事に楽しむためである。自分の腕前が人より優れていることを喜び。そして、負けて不愉快に思う事も分かりきった事である。自身が負けて人を喜ばそうと思えば、全く遊びの楽しさはない。人に残念と思わせて、自身の心を慰む事は、人の踏み行うべき道に背く。親しい仲間同士で遊ぶのも、人を担いだり欺いたりして、自身の知恵が勝っている事を楽しむ。これはまた礼儀に背いている。そして、初めは遊行や酒宴がもとで起る、いつまでも解けない恨みを心に残すというような事が多い。これも皆、争い好む物の弊害である。

 人に勝ろうと思えば、ただ学問をして、学問上の知識において勝ろうと思わなければならない。学問をする以上とは。自分の長所を自慢せず、仲間と争わない事を知るはずだからである。重要な官職を辞めて、欲望も捨て去る事が出来るのは、ただ学問の力だけである。」。

  

第百三十一段 身の程を知れ

 貧しき者は財(たから)をもて礼とし、老いたる者は力をもて礼とす。おのれが分(ぶん)を知りて、及ばざる時は、速やかに止むを智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして、しひて励むは、おのれが誤りなり。

 貧しくて分を知らざれば盗み、力おとろへて分を知らざれば病を受く。

 

現代語訳

 「貧しき者は財貨を人に送ることを礼儀と心得、老いたる者は人のために力仕事をしてやることをもって礼儀と心得ている。(しかし、これは誤りで)自分の身の程を知って、及ばざる時は速やかに止めることが賢明な身のほどこし方と言うべきである。それを許さないというのは、相手の誤りである。身のほどを知らずして、無理に励むのは、自身の誤りである。

 貧しくて身のほどを知らないと盗み、体力が衰えて身のほどを知らないと病にかかる。」。

 

第百三十二段 鳥羽の作道

 鳥羽の作道(つくりみち)は、鳥羽殿立てられて後に号(な)にはあらず。昔よりの名なり。元良(もとよし)親王、元日の奏賀の声、甚だ殊勝にして、大極殿(だいごくでん)より鳥羽の作道まで聞こえけるよし、李部王(りほうわお)の記に侍るとかや。

 

現代語訳

 「鳥羽の作道(京都市下京区九条の羅城門跡の四つ塚から、上鳥羽を経て下鳥羽へ通ずる一直線の大路)は、鳥羽殿(白河天皇が応徳三年(1086)に造営され、後鳥羽上皇が増収した離宮)が建ててられた後に名が付けられたのではない。昔からの名前である。元良親王(陽成天皇の第一皇子)が、正月の元日に太極殿に出られて、奏賀(百官から新年の祝賀を受ける儀式を「朝賀」と言い、その際に奏賀者が進み出て賀詞を奏するのを「奏賀」という)の声がたいっへん見事で、大極殿(大内裏の朝堂院の正殿)より鳥羽の作道まで聞こえたと、李部王(りほうわお:後醍醐天皇の皇子、式部卿重明親王の日記)に書かれているとか」。

 

第百三十三段 東枕・南枕

 夜の御殿(おとど)は東御枕(みまくら)なり。おほかた、東を枕として陽気を受くべき故に、孔子も東首(とうしゆ)し給へり。寝殿のしつらひ、あるは南枕、常のことなり。白河院は、北首(ほくしゆ)に御寝(ぎよしん)なりけり。「北は忌む事なり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にさせ給ふ事、いかが」と、人申しけり。ただし、太神宮の遥拝(えうはい)は、巽(たつみに)に向はせ給ふ。南にはあらず。

 

現代語訳

 「清涼殿にある天皇の御臻所は、東枕である。大方、(中国から入った来た考えであり)、東枕にすると、陽気を受けるのが良いとので、孔子も東に首を置いていたという。寝殿のしつらいは、(東枕にする以外に、)南枕にするのも普通の事である。白河上皇は、北に首を置いてお休みになる。『北は忌み嫌う事である。また伊勢は南である。伊勢神宮の方をに足を向けるのは、いかがな事か』とある人が申した。天皇が毎朝(の行事として清涼殿の石灰の檀で)神宮・内示所以下を拝する際には巽(たつみ:東南に)向かわれる。南ではない。」。

 

第百三十四段 自分自身を知れ

 高倉院の法華堂の三昧僧(さんまいそう)、なにがしの律師とかやいふもの、ある時、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我がかたちの見にくくあさましき事を、あまりに心うく覚えて、鏡さへうとましき心ちしければ、その後ながく鏡を恐れて手にだに取らず、さらに人に交はる事なし。御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。

賢げなる人も、人の上をのみはかりて、おのれをば知らざるなり。我が知らずして外を知るといふ理(ことわり)あるべからず。されば、おのれを知るを、物知れる人といふべし。かたち醜けれど知らず。心の愚かなるをも知らず、芸の拙き(つたな)きをも知らず、数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病のをかすをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず。身の上の非を知らねば、まして、外のそしりを知らず。ただし、かたちは鏡に見ゆ。年は数へて知る。わが身のこと知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似たりとぞいはまし。かたちを改め、齢(よはひ)を若くせよとにはあらず。拙きをしらば、なんぞやがて退かざる。老いぬと知らば、なんぞしづかに居て身をやすくせざる。行ひおろかなりと知らば、なんぞ玆(これ)を念(おも)ふこと玆にあらざる。

 すべて人に愛楽(あいげう)せられずして衆に交はるは恥なり。かたちに見にくく心おくれにして出で仕へ、無知にして大才に交はり、不堪(ふかん)の芸をもちて堪能の座につらなり、雪の頭をいただきて盛りなる人に並び、いはんや、及ばざる事を望み、かなはぬことを憂へ、来たらざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず。貪(むさぼ)る心にひかれて、みずから身を恥づかしむるなり。貪ることの止まざるは、命を終ふる大事、今ここに来たれりと、確かに知らざればなり。

 

現代語訳

 「高倉天皇の法華堂(京都東山区清閑寺内に建立され高倉天皇の遺骨が納められた堂)の三昧僧(ざんまいそう:法華堂に常駐して法華懺法〔せんぽう〕を学び修め、念仏・誦経〔ずきょう〕する僧)の、なにがしの律師(りっし:僧官の第三位で、僧正・僧徒に次ぐ官名)とか言う者が、ある時に、鏡を取って、顔をつくずくと見て、私の容貌が見にくくあきれるほどひどいのが、情けなく思われて、鏡さへ見ることがうとましく思われので、その後長く鏡を恐れて手を取らなかった。さらに人と交際する事も無くなった。法華堂の勤行にだけ参加して、(後は)自分のことを知られないようにしていた。自分自身を知ろうともせずに他の事を知ろうとするのは道理にあるはずが無い。そして、自身を知る事で、物の道理を知る人と言う。容貌が醜くとも知らず、心の愚かなるものを知らず、芸の上手くない事も知らず、身分の取るに足らないのも知らないし、齢が老いていくことも知らない。病で体を損なっているのも知らず、死が近づく事も事も知らず、修行している仏道の不十分な事も知らない。自分自身の欠点を知らないと、まして、自分に対する世間の非難をも知らない。ただし、かたちは鏡に見える。年は数えて知る。自身の事を知らないでいるが、知ったからと言って、何とも致し様がないから、知らないのと同様だというかもしれない。しかし、私は何も、その醜い容貌を改めようとか、老いてしまった身体を若くせよとは言うのでは無い。自身が劣っていることを知ったならば、何故すぐに身を引かないのか。老いると知れば、何処か静かな場所で過ごし、身を安楽にしないのか。修行が不十分だと知るなら、どうしてその点についてよく反省しないのか。

 すべて、人に愛し好まれる事なくして世間の人々と親交するのは恥である。容貌が醜く心が劣っているのに仕官をして、無知にして博学の人と交際し、下手な芸をもって上手な人たちと同席し、真っ白な頭をして壮年の人と肩を並べ、もちろん、及びもつかない事を望み、できもしない事を歎願し、実現しそうもないことを期待し、人に惧れを抱き、人に媚びるのは、人から与えられた恥ではない。貪(欲望にむぼさ)る心にひかれて、自身を恥ずかしめる事である。貪ることを止めないのは、死という一大事が、眼前に迫っていると、しかと自覚していないからである」。