鎌倉散策 『徒然草』百十八段から第百二十一段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第百十七段 わろき友よき友

 友とするにわろき者、七つあり。一つには高くやんごとなき人。二つには若き人。三つには病なく身強気人。四つには酒を好む人。五つにはたけく勇める兵(つわもの)。六つには虚言(そらごと)する人。七つには欲深き人。

 よき友三つあり。一つには物くるる友。二つには医師(くすし)。三つには知恵ある友。

 

現代語訳

 「友とするにはよくない者が、七つある。一つには身分が高く重々しい人。二つ若い人。三つには病なく身体の強い人。四つには酒を好む人。五つには勇猛な武士。六つには虚言をする人。七つには欲深い人。

 良い友には三つある。一つは物をくれる友.二つには医師。三つには知恵ある友。

 

百十八段 鯉・雉・松茸・雁

 鯉のあつものひいたる日は、鬢(びん)そそけずとなん。膠(にかは)にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。

 鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿(みゆどの)の上にかかりたるも苦しからず。その外は、心うとき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚(くろみだな)に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて御文にて、「かやうの物、さながらその姿にて御棚にゐて候ひし事、見ならはず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさぶらはぬ故にこそ」など、申されたりけり。

 

現代語訳

 「鯉の温かい吸い物を食べる日は、左右の耳の上の頭髪がばらつかないと言う。(臓物で)膠(にかわ:接着剤)として作る物なので、粘り気があるのだろう。

 鯉だけは、天皇の御前においても切られる魚で、高貴な魚である。鳥には雉、比べようも無い物である。記事・松茸などは、御湯殿(みゆどの:清涼殿にある一室で、御所に続き、湯や食物を調える場所)の上にかかっているのも見苦しくはない。その外の物は、心いとわしい物である。後醍醐天皇の中宮禧子の御湯殿の上の黒御棚に雁が見えているのを、西園寺実兼が御覧になって、帰られてしまった。すぐにお手紙で、「このような物が、そのままの姿で御棚に置いてありましたのは、見慣れない事で、みっともない事であります。しっかりした人がお傍にお付きしていないからでしょう」等と、申されたと言う。」。

 

第百十九段 かつお

 鎌倉の海に、かつをといふ魚は、かの境ひには、さようなきものにて、このごろもてなすものなり。それも、鎌倉の年よりの申し侍りしは、「この魚、おのれが若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切り捨てて侍りしものなり」と申しき。かようの物も、世も末になれば、上(かみ)ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。

 

現代語訳

 「鎌倉の海に鰹と言う魚は、あの土地ででは、無常の物として最近もてはやされているものである。それも、鎌倉の年よりが申すのには、「この魚、私どもが分か雁ころまでは、れっきとした人の前にお出しする事はございませんでした。頭は身分の低い者も食べず、切り捨てていました」と申す。このような魚も、末世となると、上流階級にまでも入り込むという次第です。

百二十段 唐の物

 唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。もろこしの舟の、たやすからぬ道に、無用のものども取り積みて、所せく渡しもて来る、いと愚かなり。「遠き物を宝とせず」とも、また、「得がたき貨(たから)をたふとまず」とも、文にも侍るとかや。

 

現代語訳

 「中国の物は、薬以外、無くとも不自由することはない。書物は、この国に多く広まり、書き写す事もできよう。中国の舟が容易でない航路を、上流階級で使用していた贅沢品を積み込んで、あふれるほど多く運んでいるのは、本当に愚かである。「遠い国の物を珍重せず」とも、また、「得がたい宝を尊とまず」とも、古書に記述されているとか。」。

 

(鎌倉東慶寺)

第百二十一段 養い飼うもの

 養い飼うものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかがせん。犬は、守り防くつとめ、人にもまさりたれば、必ずあるべし。家ごとにあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなん。その外の鳥獣(けだもの)、すべて用なき物である。走る獣は、檻((をり)に籠め、鎖をさされ、飛ぶ鳥は、翅(つばさ)を切り、籠(こ)に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁へ、止む時なし。・その思ひ、わが身にあたりて忍びがたくは、心あらん人、これを楽しまんや。生(しょう)を苦しめて目を喜ばしむるは、桀(けつ)・紂(ちう)が心なり。王子猷(いう)が鳥を愛せし、林に楽しぶをを見て、逍遥(せいえう)の友といしき。捕へ苦しめたるにあらず。

「およそ、珍しき禽(とり)、あやしき獣、国に育(やしな)はず」とこそ、文にも侍らるなれ。

 

現代語訳

 「家畜として飼養する物には、まず馬や牛がある。(これを)繋ぎ苦しませるのは可哀そうであるが、無くてはならない物で、どうも仕方がない。犬は番犬としての働きがあり、人にもまさり、必ず飼われる。しかし、家ごとにあるものでは、わざわざ探し求めて飼わずともすむだろう。その外の鳥獣は、すべて用なき物である。走る獣は、檻に籠められ、鎖を付けられ、飛ぶ鳥は、翼を切られ、籠に入れられて、(自由に空を飛びたいと願い)雲を恋しく思い、野山を(駆けりたいと)思う嘆きの、止む時は無い。その気持ちを、わが身に引き当ててみて堪えがたく思われるならば、思いやりのある人には、(どうして鳥獣を飼う事を)楽しむことが出来ようか。生きている物を苦しめ見て喜ぶのは、(中国の夏の最期の王)桀・(殷の最期の王)紂のような(残忍な心を持った暴君のごとき)心である。(中国の普代の文人)王子猷が鳥を愛したのは、林で楽しく飛ぶのを見て、そぞろ歩きの友としてである。捕えて(籠に入れて)苦しめさせたのではない。

「だいたい、珍しい鳥、あやしげな獣は、国に養わず」と(『書経』「旅獒〔りょうごう〕の」書に書かれている。」。

 ※藤原定家の日記『明月記』嘉禄二年(1226)五月の条に、去年から今年にかけて、宋の国から多くの鳥獣が輸入され、京との富裕な貴族たちが、争ってこれを飼育した事が記されているが、鎌倉末期においても事情は同様であったと考えられる。