鎌倉散策 『徒然草』百十三段から第百十六段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

百十三段 聞きにくく見苦しきこと

 四十にもあまりぬる人の、色めきたる方、おのづから忍びてあらんはいかがはせん、言にうち出でて、男・女のこと、人の上をも言ひたはぶるるこそ、にげなく、見苦しけれ。

 おほかた、聞きにくく見苦しき事。老人(おいびと)の若き人に交はりて、興あらんと物言ひゐたる。数あらぬ身にて、世の覚えある人を、隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人(まれびと)に饗応(あるじ)せんときらめきたる。

 

現代語訳

 「四十歳をも過ぎた人が、好色めいたことを、たまたま人目を忍んであったとしても、それはどうにも致し方ない事であろう。言葉に出して、男女の事は、おのれが他人のことまでふざけて言うのは、不似合いで見苦しい。

おおかた、聞きにくく見苦しき事。(それは、)老人が若き人に交わって、面白おかしくしようと物事を言う。数に足らぬ身で、世間の信望のある人を、親しい仲のように言う。貧しい家で、酒宴を好み、客日とあれば饗応(きょうおう:酒を出してもてなす事)する時は派手に振舞っているなど。」。

 

(岩手県盛岡市)

第百十四段 高名の賽王丸

 今出川のおほい殿、嵯峨へおはしけるに、有栖川のわたりに、水の流れたる所にて、賽王丸(さいおうまる)が、御牛を追ひたりければ、あがきの水、前板までささとかかりけるを、為則(ためのり)、御車のしりに候ひけるが、「希有の童(わらは)かな。かかる所に御牛をば追ふものか」と言ひたりければ、おほい殿、御気色あしくなりて、「おのれ、車やらん事、賽王丸にまさりてえ知らじ。稀有の男なり」とて、御車に頭を討ち当ててられけり。

 この高名の賽王丸は、太秦殿(うづまさでん)の男、料の御牛飼ぞかし。この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人は、ひささち、一人は、ことつち、一人は、はふはら、一人はおとうしとつけられけり。

 

現代語訳

 「今出川のおほい殿(西園寺公相〔きんすけ〕)、嵯峨(京都市右京区嵯峨)へ行かれた時に、有栖川(嵯峨野にあっただろう川)の渡りに,水の流れている所で、賽王丸(『駿牛絵詞』によれば公相の祖父公経が後嵯峨院に進上した牛飼)が御牛を急がせたので牛の蹴り立てる水が牛車の屋形の意前に渡してある横板)までサッとかかってしまったのを、為則(未伝承、公相に仕えていたとみられる従者か)は御車の後ろの席に乗っていたが、「とんでもない牛飼い童だ。このようなところで御牛を急がすものか」と言うと、おほい殿は、御機嫌が悪くなって、「貴様は、車の御仕方を、賽王丸にまさる心得を知ってはいまい。めったにい無い牛飼いの男だ」と言って、牛舎に為則の頭を打ち当てた。

 この高名な賽王丸は、太秦殿(うづまさでん:未詳。内大臣藤原信清か)の召し使いで天皇や貴族の所有し使用する御牛飼いの者である。この太秦殿にいる女房の名は一人は、ひささち。一人は、ことつち。一人は、はふはら。一人は、おとうしと付けられている。」。

 

(京都鴨川)

第百十五段 ぼろぼろの決闘

 宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候。かくのたまふは誰ぞ」と答ふれば、「しら梵字と申すものなり。おのれが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人にあひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」といふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉らば、道場を汚(けが)し侍るし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづかたをもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るし」と言ひ定めて、二人河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、ともに死にけるり。

 ぼろぼろといふ者、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字などいひける者、その初めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執(がしふ)深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじやう)を事とす。放逸無慙(ほういつむざん)の有様なれども、死を軽(かろ)くして少しもなづまざる方のいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。

 

現代語訳

 「宿河原(神奈川県川崎市宿河原か)という所にて、虚無僧(こむそう:普化宗に属する修行僧の旧称)が多く集まり、九品の浄土に往生しようと願って唱える念仏を行っているところ、外より入ってきた虚無僧が、「もしやこの中に、いろをし房と申す虚無僧はおられるか」と尋ねると、その中より、「色をしは、ここにいる。そう言うのは誰だ」と答えれば、「しら梵字と申す者である。私の師匠の、なにがしと言う人が東国にて。いろをしと申す虚無僧に殺されたと承ったので、その人に会いに参って、恨みを晴らしたいと思い、尋ね申した」と言う。いろをしは、「殊勝にも尋ねて参られた。そのような事は(確かに)あった。ここでお相手したならば、道場を池が師でしまいます。前の河原に行きましょう。決して、付き添いの方々よ、何れの方も助勢なさるな。多くの人たちの迷惑になれば仏事の妨げになってしまう」と話を付けて、二人で河原に出向かい、心行くまで太刀で撃ち合い刺し違えて、ともに死んでしまった。

ぼろぼろという者は、昔はいなかった。近年、ぼろんじ・梵字・漢字などという者が、その始まりとかいう事であるとか。世を捨てたようで我を張る心が深く、仏道を願うように見えて争う事を生業とする。好き放題で恥じることの無い様子であるが、死を恐れずに少しも生に未練がましくないのがいさぎよく思えて、人の語ったまま書き付けた。

 

第百十六段 名のつけ方

 寺院の号、さらぬよろづの物にも、名をつくる事、昔の人は、少しも求めず、ただありのままに、やすくつけるけるなり。このごろは、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむづかし。人の名も、目なれぬ文字をつかんとする、益なき事なり。

 何事も、めづらしき事を求め、異説を好むは、浅才(せんざい)の人の必ずある事なりとぞ。

 

現代語訳

 寺院の名称、その他の色々な者にも、名前を付けることは、昔の人は、少しも趣向をこらさず、ただありのままに、あっさりと付けていた。最近は、深く思案して、学才のほどを表そうとしているように見えて、わずらしい。人の名も、見慣れない文字をつけようとするのは、益無き事である。

 何事も、珍しい事を求めて、普通と違った考えを好むのは、浅学の人に必ずある事である。」。

 

 ※平成の頃は、子供に奇妙な当て字を付けて名前を付ける事が一時流行ったのを思い出す。名付けられた子供が、将来名前負けしないか、それに適した容貌になるのかと他人事ではあるが不安を抱いた。しかし、やはり一時的な物で、その後にはしっかりとした漢字の意味を用いられている。兼好の言うように、ただありのままに親としてその子に託す名前であるのが良いのであろう。