鎌倉散策 『徒然草』百五段から第百七段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

百五段 語り合う男女

 北の屋がげに消え残りたる雪の、いたう凍りたるに、さし寄せたる車の轅(ながえ)も、霜いたくきらめきて、有明の月さやかなれども、くまなくはあらぬに、人ばなれなる御堂の廊に、なみなみにはあらずと見ゆる男、女となげしに尻かけて、物語するさまこそ、何事にかあらん、尽きすまじけれ。

 かぶし・かたちなど、いとよしと見えて、えもいはぬ匂ひの、さとかをりたるこそ、をかしけれ。けはいなど、はつれはつれ聞えたるもゆかし。

 

現代語訳

家の北側の陰に溶け残っている雪の、ひどく凍っている所に、さし寄せてある車の轅(ながえ:牛車の前に長く出ている二本の棒をいう)も、霜がついて輝き、有明の月が冴えているものの一点の陰りもなく、照り渡っている訳ではない。人の気配も無い御堂の廊に、人並の身分でないと見える男女が廊(廊の柱と柱の上下を渡す水平の材)に腰かけて、話をする様子(を見て)、何を話しているのか、いつまでも尽きそうにない。顔つきや・容貌など、とても優れて見える。何とも言わない匂いが、香りを立てている事こそ興味深い。話をしている声などは、少し聞こえるのも(何となく)心が引かれる。

 

 

第百六段 尊かりけるいさかい

 高野証空上人、(かうやのしようくうしやうにん)、京へのぼりけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが、口ひきける男、あしく引きて、聖の馬を堀へ落しげり。

 聖、いと腹あしくとがめて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘(びく)よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞(うばそく)は劣り、優婆塞より優婆夷(うばい)は劣れり。かくのごときの優婆夷などの身にて、比丘を掘へ蹴入(けい)れさする、未曾有の悪行なり」と言はれければ、口ひきの男、「いかに仰せらるるやらん、えこそ聞き知らぬ」といふに、上人なほいきまきて、「何と言ふぞ、非修非学(ひしゆひがく)の男」とあららかに、言ひて、きはまりなき方言(ほうごん)しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり。

 尊かりけるいさかひなるべし。

 

現代語訳

 「高野証空上人(かうやのしようくうしやうにん;真言宗本山の高野山金剛峰寺の証空上人は伝未詳)は、京へ上る時に、細い道で、馬に乗った女が、上人と出くわしたが、その女の馬の口取りの男が手綱を引きそこなって、聖の馬を掘りに落としてしまった。

聖は、ひどく立腹して、相手を非難し、「仏の四種の弟子(比丘〔びく〕・比丘尼〔うばに〕・優婆塞〔うばそく〕・優婆夷〔うばい〕の総称)はだな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。このように最下位の優婆夷などの身分で、最高位の比丘を掘に蹴り入れるのは前代未聞の悪行である」と言えば、口引きの男は、「何と仰るのやら、一向に分かりません」と言うと、上人はいっそういきり立って、「何という、仏道の修行もせず、学問もしない男」と荒々しくいって、この上もない言いたいことを思うのままに言い散らす様子で、馬を引き返して逃げて行かれた。

 さぞかし尊く感ぜられた公論だった事であろう。

※相手の行為が「未曾有の悪行」であることを理路整然と論難していく承認。何を言われているのか、さっぱり理解できない口ひきの男。益々上人は激昂して、相手を罵倒するものの、その罵倒する言葉が自分の非である事に気付き、その場を逃げ出してしまう上人。劇的な高まりを見せる口論を通して、兼好は純情一途な人間を描いてみせる。

 

第百七段 女の本性

 女の物言ひかけたる返事、とりあへずよきほどにする男は、ありがたきものぞとて、亀山院の御時、しれたる女房どもの、若き男たちの参らるるごとに、「郭公(ほととぎす)や聞き給へる」と問いて心みられけるに、なにがしの大納言とかやは、「数ならぬ身は、え聞き候はず」と答へられけり。堀川内大臣は、「岩倉にて聞き候ひしやらん」と仰せられたりけるを、「これは難なし。数ならぬ身、むずかし」など定め合はれけり。

 すべて、をのこをば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。「浄土寺前関白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へ参らせさせ給ひける故に、御詞(おんことば)などのよきぞ」と、人の仰せられけるとかや。山階左大臣殿は、「あやしの下女(しもおんな)の見奉るも、いと恥ずかしく、心づかひせらるる」とこそ仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣文(えもん)も冠(かうぶり)も、いかにもあれ、ひきつくろう人も侍らじ。

 かく人に恥ぢらるる女、如何にばかりいみじき物ぞと思うに、女の性は皆ひがめり。人我(にんが)の相深く、貪欲甚だしく、物の理をしらず、ただ迷ひの方に心もはやく移りて、詞を巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言わず。用意あるかとみれば、また、あさましき事まで、問はず語りに言ひ出だす。深くたばかりかざれる事は、男の知恵にもまさりたるかと思えば、その事、あとよりあらはるるを知らず。すなほならずしてつたなきものは女なり。その心に随ひてよく思はれん事は、心憂かるべし。されば、何かは女の恥づかしからん。もし賢女あらば、それもものうとく、すさまじからん。ただ迷ひを主としてかれに随ふ時、やさしくもおもしろくも覚ゆべき事なり。

 

現代語訳

 「女性の何かを言いかけた事の返答は、即座に程よくする男は、稀な者である。亀山天皇の御時に、いたずら好きな女房たちが、若き男たちが参内されるごとに、「今年はもうほととぎす(の鳴き声)をお聞きになりましたか」と問うて試されたところ、何某の大納言がは「人の数には入らないつまらない身には、よく聞く事が出来ません」と答えられた。堀川内大臣は「岩倉(京都市左京区岩倉町)にて聞きましたろうか」と仰せられたのを(女官たちは)「これは無難なんな答えです。人の数には入らないつまらない私の身では、煩わしいのでしょう」などと批評し合われた。

すべての男子を、女に笑われないように育て上げるのが良いと言う事だ。「浄土寺前関白殿(九条師教)は、幼くして、安喜門院(後堀川天皇の皇后有子)がよくお教へ申し上げられたので話す言葉も優れておられた」と、ある方が仰っていたとか。山階左大臣殿(洞院実雄)は、「賤しい召使の女に見られるだけで、気恥ずかしく、(お洒落に)心使われる」と仰せられた。(もしも)女がいない世であれば、装束の付け方や冠のかぶり方も、どんなであろうときちんと整える人もいなかっただろう。

このような男たちに気を置かれる女は、いかばかりに素晴らしいものかと思うが、女の本性は僻んでいる。我執の念が強く、欲が深くて飽く事を知らない。物の道理を知らず、ただ煩悩の方面に心が移り、言葉巧みに、言って差し支えない事でも問う時には言わず、用心して口を慎んでいるのかと見れば、また、とんでもないことまで、聞かれもしないのに言ひ出す。思慮をめぐらして飾る事は、男の知恵にも勝るかと思えば、その飾り立てた事が、後にばれてゆくのを知らない。素直でなく愚劣なのが女性である。そうした女の気に入る様に思う事は、情けない事であろう。そうであるなら、何で女の気を置く必要があろうか。もし賢女ならば、親しみにくく、興ざめなものに違いない。ただ迷妄に身を任せて女の心に気に入られようとする時、(女の)優しさと(恋する)楽しさを思える事である。

※鎌倉時代においても、京都の宮廷では、平安朝盛時の面影を留めて、後宮は依然として健在であり、廷臣たちは、後宮に集う才媛達の眼を強く意識して行動していた。若き日の兼好も、事情は同様であったと考えられる。しかしこの段の後半において、兼好は王朝的女性観にはっきりと決別を告げ、痛烈な女性批判を展開する。その批判が冷酷と言えるほど手厳しいのは、兼好が今なお女性の魅力に心惹かれる事はなはだしく、心の迷いを振り切れないものがあったからだろう。

現在では、女性蔑視として語る事も出来ないが、この当時の男子、男子たれと育てられることも大変である。「男らしい」「女らしい」の言葉が消えつつある現在だが、自分もそうであるように、男子よ大志を抱けと言いたくなる。