第九十九段 堀河相国、過差を好むこと
堀河相国は、美男のたのしき人にて、そのこととなく過差(くわさ)を好み給ひけり。御子基俊卿を大理(だいり:検非違使別当の唐名)になして、庁務行はれるに、庁屋の唐櫃(からひつ)見苦しとて、めでたく作り改めらるべき由、仰せられけるに、この唐櫃は、上古(しやうこ)より伝はりて、その始めを知らず、数百年を経たり。累代の公物(くもつ)、古幣をもちて規模とす。たやすく改められがたき由。故実の諸官等申しければ、その事やみにけり。
現代語訳
「堀河(久我通具、道親の祖孫。祖父通具から堀河を号す。)相国(太政大臣の唐名))は、美男で富裕の方で、何事についても贅沢を好まれた。我が子基俊卿(基具の次男)が検非違使別当を任ぜられ、検非違使庁で政務が行われたが、(別当の私邸にあった)検非違使庁の庁舎唐櫃(からひつ:足の付いた櫃。衣類・調度品・記録類をいれる)が見苦しいと、立派に新調されるようにと、仰せられた。この唐櫃は、遠い昔から伝えられるには、その起源は不明だが、数百年を経過し、代々伝えられる官有物で、古びて破損しているのを誉としている。軽々しく改め直すのはと、故実に通じた役人たちが申し出すと、その件は沙汰止めとなってしまった。」。
第百段 まがりを参らせよ
久我相国は、清涼殿の殿上にて水を召しけるに、主殿司(とのもづかさ)、土器(かはらけ)を奉りければ、「まがりを参らせよ」とて、まがりしてぞ召しける。
現代語訳
「久我相国(くがのしょうこく:久我通光。道親の子。寛元四年太政大臣になる)は、清涼殿の殿上で水を召しあがった。主殿司(とのもづかさ:後宮十二司の一人。燈油、薪炭、火燭などを司る食で職員は女性)が、土器(かはらけ:釉をかけないで焼いた器)にて渡されると、「木製の椀(一説に銀の器)にて持ってまいれ」と言って、まがりでもって水を召しあがった。」。
第百一段 六位外記康綱
ある人、壬大臣の節会の内弁を勤められけるに、内記の持ちたる宣命を取らずして、堂上(たうしやう)せられにけり。きはまりなき失礼なれども、立ち帰り取るべきにもあらず。思ひわづらはれけるに、六位外記康綱、衣(きぬ)香月の女房をかたひらにて、かの宣命を持たせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。
現代語訳
「ある人が、天皇が大臣を任命する儀式において任大臣(紫宸殿の正面にある承明門の内に当て諸事を準備して統制するための臨時に壬ざれる役)を勤められることになり、中務省の役人が起草した詔勅・宣命を受け取らないで、儀式の行われる紫宸殿に参上して着席された。この上もない失態であったが、元へ戻って受け取るわけにもいかず(どうしようかと)思われていたところ、太政官の官人である六位外記康綱(少外記であった中原安綱)が、衣をかぶった女房に頼みこんでこの宣命を持たせて、密やかに渡された。実に大した事であった。」。
第百二段 又五郎男
尹大納言光忠入道(ゐんのだいなごん)、追儺(ついな)の上卿(しやうき)を勤められけるに、洞院右大臣殿(洞院公賢か)に次第を申し受けられければ、「又五郎男を師とするより外の才覚候はじ」とぞのたまひける。かの又五郎は、老いたる衛士(ゑじ)の、よく公事になれたる者にてぞありける。近衛殿、著陣(ちやくじん)し給ひける時、軾((ひざつき)を忘れて、外記を召されけりば、火たきて候ひけるが、「まづ軾を召さるべくや候ふらん」と、忍びやかにつぶやきける、いとをかしかりけり。
現代語訳
「尹大納言光忠入道(ゐんのだいなごん:源光忠)が、鬼やらいの儀式の奉行を勤められることになり、洞院右大臣殿(洞院公賢は建武二年から四年間右大臣に任ぜられる)に式の順序につき教えを請われたところ、「又五郎男を師とする他によい分別はございますまい」と言われた。この又五郎男は老いた衛門府に属する者(皇居の諸門を警護する者)で、朝廷で行われる政務や儀式をよく知る者であった。近衛殿(近衛経忠か)が節会や公事の際に着座する事になっている場所に着座しようとした時、ひざまつく際に膝の下に敷く物を忘れ、外記(節会・公事の進行役の者)を呼んで、(又五郎は)庭火を焚くため詰めており、「まづ軾を持ってまいるように」と、密かにつぶやく事、実におかしかった。」。
第百三段 わが朝の者とも見えぬ忠守
大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれける所へ、医師(くすし)忠守参りたりけるに、侍従大納言公明卿(きんあきらのきょう)、「わが朝(てう)の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを、「唐瓶子」と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちて退(まかり)出でにけり。
現代語訳
「大覚寺殿にて(京都市右京区嵯峨野にあった後宇多天皇の御所であった大覚寺の寺域内)、法王の傍に仕えていた人たちと、なぞなぞ(わかりにくい問題をつくって相手に解答を求める遊び)を作って解答しているところに、医師忠守(くすし丹羽忠守)参参上した。侍従大納言公明京は、「我が国の者とも見えない忠守だなあ」となぞなぞの、「唐瓶子(中国風徳利)」と解答して笑っているのに、(忠守)は腹を立てて退室してしまった。
※唐瓶子(中国風徳利)は金属製の徳利で『平家物語』第一巻に、平の忠盛の事を殿上人が「伊勢平氏〔瓶子〕は眇〔すがめ(酢瓶)〕なりけり」とはやし立てた事から「忠盛」の「伊氏瓶子」に対して「わが朝の者とも見えぬ忠守(我が国の者とも見えぬ忠守)」の問題に、「唐瓶子」と説いたのである。忠盛の顔つきが徳利のようだったのかもしれない。」。
百四段 桂の木の家の女
荒れたる宿の、人目なきに、女の、はばかる事あるころにて、つれづれと籠り居たるを、ある人、とぶらひ給はんとして、夕月夜のおぼつかなきほどに、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことことしくとがむれば、げすの女の出でて、「いづくよりぞ」といふに、やがて案内せさせて入り給ひぬ。心細げなる有様、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷にしばし立ち給へるを、もてしづめたるけはひの、若やかなるして、「こなた」といふ人あれば、たてあけ所せげなる遣戸よりぞ人り給ひぬる。
内のさまは、いたくすさまじからず、心にくく、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、にはかにしもあらぬ匂ひ、いとなつかしう住みなしたり。「門よくさしてよ。雨もぞ降る、御車(みくるま)は門の下に。御供の人はそこここに」といへば、「今宵ぞ安き寝は寝べかめる」と、うちささめくも、忍びたれど、ほどなければ、ほの聞ゆ。
さて、このほどの事ども、こまやかに聞え給ふに、夜深き鳥も鳴きぬ。来しかた行末かけてまめやかなる御物語に、この度は、鳥も花やかなる声にうちけしきれば、明けはなるるにやと聞き給へど、夜深く急ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙白くなれば、忘れがたき事など言ひて、たち出で給ふに、梢(こずゑ)も庭もめづらしく青みわたりたる、卯月ばかりのあけぼの、艶にをかしかりしを思しで出て、桂の木の大きなるが隠るるままで、今も見送り給ふとぞ。
現代語訳
「荒れた宿の、人の出入りもない所に、ある女が、(何らかの事情で宮仕えなりをして)世間なりをはばかっている頃で、所在無く隠れていたところ、あるお方が御訪問になろうとして、夕月の夜のほの暗い時分に、密かに尋ねておいでになったところ、犬の仰々しく咎めだてして吠えるので、召使の女が出てきて、「とちらからおいででしょう」という女に、そのまま取次をさせた。(庭内の)心細げな様子で、どのように過ごされているのかと、とても気がかりになる。粗末な縁側に暫くお立ちになり、しとやかな感じで、若々しい声で、「こちらへ」と言ふ人がいたので、開けたての自由にならない引き戸からお入りになった。
家の中の様子は、それほど荒れてはおらず、奥ゆかしく、燈火は部屋の向こうでほのやかに灯っていたが、(そこにある)調度の美しさなどが見えて、今急に焚いたと思われぬ香の匂いも、大層懐かしい感じで住みならしている。「門をよく閉じてください。雨が降るかもしれません、御車は門の下に(引き入れて)。お供の人はどこそこに(休んでください)」と言えば、「今宵こそ安心して寝れるでしょう」と、囁いているのも、(声を)密めてているが、手狭な(部屋)ために、かすかに聞こえる。
さて近況などの事を、こまごまと聞いているうちに、夜更けの一番鳥が鳴いた。過去将来にわたって実意のこもった語りに、この度は、鳥も陽気な声でしきりに鳴きたてるので、夜が明けてしまったかとお聞きになるのだが、夜深いうちに急いで帰らなければならない場所のようでもないので少しゆっくりしておられると、戸の隙間が白んできたので、忘れがたい事も話して、(部屋を)立ち出た時に、梢も庭も目の覚めるような青々としており、四月頃の夜明けが、その優美で趣の深い(あの頃の)情景を思い出して、庭に立つ大きな桂の木が隠れるまで、今も見送りになる。」。