鎌倉散策 鎌倉歳時記 令和五年年末から令和六年正月 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 令和五年十二月二十八日、木曜日、晴時々曇。何時もと同様七時二十分に起床。今朝は、日差しはあるようだが雲の多い天気。午前中はこのような天気で、午後には晴れだすようだ。ブログの整理をして、九時二十分に住居を出て北鎌倉の円覚寺塔頭龍隠庵の餅つきの手伝いに行く。鎌倉に来た五年前に、訪れた龍隠庵の和尚さんと親しくなり、それから手伝うようになった。今年も仕事が終わってないため、何時ものように人出が少ない。打ち手は、何とかなるが、返し手がいないため毎年努めなければならない。今年は、古米からつき始めるが、昨日から水に漬けていたらしいが、あまり水に漬かっておらず、うまく付く事が出来ない。午前中は、ほとんど就く事が出来ず、昼からハイペースでつき上げる。例年四時には終わるが、今年は五時過ぎまでかかった。

十二月二十九日、金曜日、晴。今朝の起床時の気温は四度。今日も龍隠庵に餅つきの手伝いに行く。日中最高気温が十五度のなる見込み。今日は昨日と違い仕事納めを終えた人が多く手伝いに来る。三百人ほどの檀家さんや知人を招待されており、家族など含むとかなりの人数になり、十一時ごろから、けんちん汁やつきたてのお餅がふるまわれる。お客さんにある程度尽き上がったお餅をついてもらう。二十九日はふくの日で縁起がいい。順番に子供たちにも尽いてもらい、子供たちも初めての経験のようで楽しんでもらった。例年は、三時半ごろに終了するが、今年は。二時半には終わった。そして、三時半に住居に戻るが、かなりの筋肉痛。十時半には就寝するが夜中のトイレに夜中三度ほど起きるがトイレに行くのがかなり難しく痛みが走った。

 

 

 十二月三十日、土曜日、晴。昨夜半からほとんど筋肉痛で体が動かない。朝何時ものように起床。十時過ぎまでテレビを見て、体に鞭打つように食材を買いに大船に行く。駐車場もかなり混んでおり、人が多い。物価高でどれもが何時もより以上に上がっている。早々に住居に戻り、後はのんびりとビデオを見て過ごした。

 十二月三十一日、日曜日、晴。朝、何時もの時間起床する。外は雨。十時過ぎには止みだし、曇り空昼過ぎから日差しが出だした。筋肉痛もだいぶましになったが、まだ痛く、歩くのが不細工である。何気なくビデオを見ながら新年の日を迎えた。

 

 

 令和六年一月一日、月曜日、晴。台峰展望台に初日の出を見に行く。七時位に上がるというので住居を六時四十五分前に出た。外はかなり明るく、速足で歩くが、餅つきの筋肉痛と日ごろの運動不足によりかなり息が上がる。七時五分前に展望台に着くと人は四十人ほど集まっていた。ご来光はかなり東側の鎌倉市中の方角から上がるため、竹林の中から光出した。葛原ヶ丘から見た方が良いと思う。その後、八幡宮にでも行こうかと思ったが、住居に戻り一日中ビデオを見て過ごした。夕方の四時十分に少し揺れを感じたため、携帯を見ると能登半島でかなり大きな地震が起こっている。テレビを映すと津波の危険性から非難の緊急速報が流れており、各地域の震度が出ている。石川県能登地方に震度7.住居の鎌倉市が震度2.家族の居る大阪市都島区は震度3と確認した。鎌倉の住居は硬い岩盤の上に立つようで、ソファーに横になっていても揺れは少し感じる程度である。大阪のマンションは、耐震構造がかなり強く、大きく揺れる。阪神大震災の時は、震度三強であったが、物が落下するほどに長い時間揺れた。早々妻に連絡を入れると、阪神大震災の時のように揺れたという。また、長い時間揺れたと言い、電話の最中も今また揺れたと。しかし落下物は無かったようである。正月元旦の夕方、この様な惨事が起こるとは。暮れ行く街と海岸の模様は日没を過ぎて、ほとんど分からない状態になる。被害は明朝になれば明確になるだろう。津波による被害が少ない事を祈るだけであった。

令和六年一月二日、火曜日、雨。何時もと同じに起床。朝から雨、テレビをつけると昨日の被害がかなり分かってきたようだ。東北地震のような津波による人的被害は避けられたようであるが、輪島では阪神大震災の神戸長田のように火事が起こっっていた。人口・家屋数や人・家屋密度、が違うため災害被害を比較するわけには行かないが、元旦の夜から被害にさらされた人たちの苦痛は大変なものである。特に厳冬期に入る能登地方の人たちは。

 また、この日の夕方、五時五十分頃に発生した羽田空港での海上保安庁の飛行機と日本航空のジェット機の滑走路での衝突事故が起こった。この画像がテレビで報道されると、息が止まるようだった。この事故で日本航空の乗客乗員あわせて379人の内14人が負傷したが、全員脱出する事が出来、負傷者も命には別条が無いという事であった。奇跡的な事例であるだろう。また海上保安庁の航空機は、新潟に自信による支援物資の搬送であったと言い、搭乗者6人中5人が亡くなられた。原因は後日明確になるだろうが、新年に、この様な惨事が二日続けておこるのは例を見ない事である。

 令和六年一月三日水曜日、曇後雨。朝何時ものように起床。何時雨が降り出すかわからないので鶴岡八幡宮の参詣は取りやめた。朝食を食べながら、北陸地方の自身情報と羽田での飛行機衝突事故報道を見る。昨年末は例年のごとく年末を楽しんだが、新年早々このような惨事が起こり、お亡くなりになられた方には、お悔やみ申します。また惨事に合われた方には、お見舞い申し上げます。これからまだまだ厳しい厳冬期に入っていきますが、やがて春が訪れるように良い年になっていくようにお祈り申し上げます。 ―了