第八十九段 猫また
「奥山に、猫又といふものありて、人を食らふなる」と人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経(へ)あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを」と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが、聞きて、ひとり歩かん身は、心すべきことにこそ、と思ひけるころしも、ある所にて夜ふくるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸のほどを食はんとす。肝心(きもこころ)も失せて、防かんとする力もなく、足も立たず、小川へころび入りて、「助けよや、猫また、よやよや」と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「これは如何に」とて、川の中より抱(いだ)き起こしたれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など懐に持たりけるも、水に入りぬ。稀有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りけり。
飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。
(鎌倉 長谷寺ライトアップ)
現代語訳
「奥山に、猫またと言う怪獣がいて、人を食らうそうだ」と人が言い、「山でなくても、このあたりでも、年功を積んだ猫は、猫またになり、人の命を取る事がある」と言う者もいる。何阿弥陀仏(なにあみだぶつ:鎌倉時代以後、浄土宗・時宗の僧の間で用いられた称号)とか言う、連歌をたしなむ法師の、行願寺の辺にいた者が、(そのことを)聞いて、一人歩きをするような者は、心すべきことと、思っていた調度その頃、ある所で夜が更けるまで連歌をして、ただ一人で帰っていた。小川の端で噂に聞いた猫またが、狙いをはずさず足もとへとつっと寄って来て、いきなり飛びつくと同時に、首の辺りに食いつこうとする。正気も失い、防ごうとするが力もなく、足も立たずに。小川に転び落ちて、「助けてくれ、猫また、ようよう」と叫べば、家々より松明を灯して走り寄って見れば、この辺りで顔見知りの僧であった。「これはどうした事か」と言われて、川の中より抱き起されると、連歌で与えられた賞品を懐から取り出してみた。扇・小箱など水につかってしまった。九死に一生を得たという様子で、這うようにして家に入った。飼っている犬は、暗い中で主と分かり、飛びついて来たと言う。」。
(鎌倉 長谷寺ライトアップ)
第九十段 頭をば見候わず
大納言法印の召し使ふし乙鶴丸(おとづるまる)、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、ある時、出でて帰り来るを、法印、「いづこへ生きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり、まかりて候」と言ふ。「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて、袖かき合はせて、「いかが候ふらん。頭(かしら)をば見候はず」と答へ申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。
現代語訳
「大納言法印(大名護院の子で法印になった者)の召し使いの稚児の乙鶴丸は、やすら殿という者を知りあって、常に行き通っていた。ある時、乙鶴丸がやすら殿の下から帰ってくると、法印が、「何処へ言っていたのか」と訪ねたところ、「やすら殿の下に、行ってまいりました」と言う。法印は「そのやすら殿は、男か法師か」とまた尋ねると、「さあどうでございましょう。頭を見たことがございません」と答えた。どうして、頭だけ見えないのだ。」。
(鎌倉鶴岡八幡宮 御鎮座祭)
第九十一段 吉凶は日によらず
赤舌日(しやくぜちにち)と言う事、陰陽道には沙汰なき事なり。昔の人、これを忌まず。このごろ、何者の言ひ出て忌みはじめけるにか、この日あること末とほらずと言ひて、その日言ひたりしこと、したりしこと、かなはず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事ならずといふ、愚かなり。吉日を撰びてなしたるわざの、末とほらぬを数へて見んも、また等しかるべし。
そのゆゑは、無常変易(むじょうへんやく)の境、ありと見るものも存ぜず、始めあることも終わりなし。志は遂げず、望みは絶えず、人の心不定(ふぢやう)なり。物皆幻化(げんけ)なり。何事か暫(しばら)くも住する。この理(ことわり)を知らざるなり。「吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善をおこなふに、必ず吉なり」といへり。吉凶は人によりて日によらず。
現代語訳
「赤舌日(しゃくぜつにち:太歳神〔木星〕の西門の番人の赤舌神が配下の六代鬼に一日ずつ順番に西門を守護させる。その中で最も凶悪な第三番目の羅刹神の番にあたる日を「赤舌日」と言って忌み嫌うと言う事は、陰陽道では問題にしない事である)と言うのは、昔の人は、これを忌み嫌わなかった。近頃、誰かが言いだして忌み嫌い始めたのか、この日にある事は終わりを全うしないと言い、その日言わなければならない事や、しなければならない事が上手く行かず、得た物は失くしてしまう。計画した事は達成しないとい言われ、愚かなる事である。吉日に撰んで達成した事が、終わりまで上手く行かないのを数えてみても、(赤舌日にした事が、うまくゆかないのとその数は、)やはり同じ事であろう。
その理由は、無常変易(むじょうへんやく:一切の事物が変化し続けて、変転極まりないこの世界)の境では、あると思われる物も存在せず、始めある事も終わりはない。志は遂げず、欲望は絶えず、人の心は定まる事はない。万物は全て、幻のように実態の無い物である。あらゆる物事の中で、ほんの一時でも現状のままである物があろうか。赤舌日を忌み嫌う者はこの道理を知らないのである。「吉日に悪を行う事は、必ず凶になる。悪日によい事を行えば、かならず吉となる。」と言う。吉か凶かは、事を行う人により定まるので、行う日によるものではない。」。
(鎌倉鎌倉宮 草鹿神事)
第九十二段 二つの矢
ある人、弓射ることを習ふに、もろ矢をたばさみて的に向かふ。師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑(なほざり)心のあり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」といふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。このいましめ、万事にわたるべし。
道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。いはんや、一刹那(いちせつな)のうちにおいて、懈怠の心あること知らんや。何ぞ、ただ今の一念において、ただちにする事の甚だかたき。
(鎌倉鎌倉宮 草鹿神事)
現代語訳
「ある人が、弓を習う時に、もろ矢(甲矢と乙矢の一対の二本の矢)を手に持って的に向かう。師は、「習い始めの人は、二つの矢を持つことが無いように。後の矢があると思い、初めの矢にいい加減な気持ちになる。毎回仕損じることなく、この矢に事を決しようと思え」と言う。わずかに二つの矢を、師の前で一つをいい加減にしようと思うだろうか。怠けをおこす心は、自らは知らずというが、師はこれを知る。この戒めは、万事に通ずるであろう。仏道を修行する人は、夕べには明日有るだろうと思う事を考え、朝には夕べに有るだろうと思う事を考えて、重ねて念を入れて修行する心づもりをしている。いうに及ばず、極めて短い時間の間において、怠けをおこたる心がある事を知らない。なんと、なそうと思い立ってこの現在の一瞬にて、(なすべき事を)行う事が困難極まる事であるからだ。」。