鎌倉散策 『徒然草』第八十五段から第八十九段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第八十五段 舜を学ぶは舜の徒

 人の心すなほならでは、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから正直の人、などかなからん。おのれすなほならねど、人の賢を見てうらやむは尋常(よのつね)なり。至(しかし)りて愚かなる人は、たまたま賢なる人見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽りかざりて名をたてんとす」とそしる。おのれが心に違(たが)へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ、この人は下愚(かぐ)の性(しょう)うつるべからず、偽りて小利をも辞すべからず。かりにも賢を学ぶべからず。

 狂人の真似とて大路(おほじ)を走らば、すなはち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥のたぐひ、舜(しゅん)を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

 

現代語訳

 「人の心は素直な物ではないから、偽りもないではない。しかし、稀に正直者は、どうして居ない事があろうか。自身が素直でなくても、人の賢き事を見てうらやむのは世間普通の事である。しかし愚かな者は、たまたま賢き人を見ても、これを憎む。「大きな利益を得るために、少なき利益を受けず、偽ってうわべを取り繕い名を高めようとする」と悪口をいう。自身の心に違えることで、この嘲りを受けることが分かるのだ。この(愚かなる人は)生まれつきの愚かな者で治すことができなず、目先の翼に目がくらみ、人によく見せるために、小さな利益をさえ拒否する事が出来ず、かりにも賢者の真似をすることができない。狂人の真似も、大路を走れば、(その人は)そのまま狂人となり。悪人を真似て人を殺せば、悪人になる。驥(き:一日千里を走る馬、駿馬)を学ぶは驥の同類であり、舜(しゅん:中国古代の聖天子として伝えられる人物)を学ぶは舜の仲間となる。それが虚偽であっても賢きを学ぼうとすれば、賢きと言ふものだ。

 

第八十六段 寺法師

 惟継中納言(これつぐのちゅうなごん)は、風月(ふげつ)の才(座江)に富める人なり。一生精進にて、読経うちして、寺法師(てらほうし)の円伊僧正(えんいそうじょう)と同宿して侍りけるに、文保に三井寺焼かれし時、坊主ににあひて、「御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺は無ければ、今よりは法師とこそ申すさめ」といわれけり。いみじく秀句(しゅうく)なりけり。

 

現代語訳

 「惟継中納言(これつぐのちゅうなごん:平惟継)は詩文の才能に優れた人であった。死ぬまで戒律を守って仏道修行に専念して、文保三年(1319)四月二十五日、(延暦寺の僧徒によって)三井寺の金堂・戒壇以下全てが焼き払われた時、僧坊の主に会って、「御坊(貴方)は寺法師と申したが、寺がなくなれば、今からは(本来の)法師と申されよ」と言われた。大した秀逸な文句である。

※比叡山延暦寺の僧を山法師と言い。それに対し三井寺(園城寺)の僧を寺法師と言った。山法師と寺法師とでお互いに我を張り通して闘争を続けてきたが、三井寺が焼かれ寺法師は寺を失くした事で、平惟継は、三井寺の坊主に闘争を止め、本来の仏道に努める法師になる事を促したと言う。

 

(京都宇治 平等院)

第八十七段 斬られた具覚房

 下部(しもべ)に酒飲まする事は、心ずべきことなり。宇治に住み侍りけるをのこ、京に具覚房とてままめきたる遁世の僧を、こじうとなりければ、常に申しむつびけり。ある時、迎へに馬を遣わしたりければ、「遥かなるほどなり。口づきのをのこに、まづ一度せさせよ」とて、酒を出したれば、さし受けさし受け、よよと飲みぬ。太刀うちはきて、かいがひしければ、頼もしく覚えて、召し具して行くほどに、木幡(こはた)のほどにて、奈良法師の、兵士(ひゃうじ)あまた具してあひたるに、この男立ち向かひて、「日暮れにたる山中に、あやしきぞ。止り候へ」と言ひて、太刀を引き抜きければ、人も皆、太刀抜き、矢はげなどしけるを、具覚房、手をすりて、「うつし心なく酔ひたる者に候。まげて許し給はらん」と言ひければ、おのおの嘲り過ぎぬ。この男、具覚房にあひて、「御房は口惜しき事し給ひつるものかな。おのれよ酔ひたる事侍らず。高名仕らんとするを、抜ける太刀、空しくなし給ひつること」と怒りて、ひた斬りに斬り落しつ。さて、「山だちあり」とののしりければ、里人おこりて出であへば、「我こそ山だちよ」と言ひて、走りかかりつつ斬り廻りけるを、あまたし手おほせ、打ち伏せて縛りけり。馬は血つきて、宇治大路の家に走り入りたり。あさましくて、をのこどもあまた走らかしたれば、具覚房は、くちなし原にによひ伏したるを、元めでて、かきもて来つ。からき命生きたれど、腰斬り損ぜられて、かたはになりにけり。

 

(京都 宇治川)

現代語訳

 「下賤の者には酒を飲ますことは、注意を必要とする。京都の宇治に住んでいる男がいた。京の具覚房と言う上品で優雅な出家遁世をした僧で、義理の兄弟として、常に親しく付き合っていた。ある時、(具覚房を)迎えに馬を遣わせ、「遠い道中の事だ。馬の口取りの男に、まず一杯の酒を飲ませてやりなさい」と言って酒を出したならば、(口取りの男は)杯を受けては受けて、とくとくと飲んだ。太刀を腰につけて、いかにも勇ましい様子で、頼もしく思えて、召し連れて行く。木幡(こはた:京都市伏見区の桃山御領付近の山)辺りで、(興福寺・東大寺の)奈良法師が、大勢の兵士を引き連れているのに出くわした。口取りの男は法師達に向かって、「日の暮れてしまった山中に、あやしいぞ。止まれ」と言って太刀を引き抜くと、兵士たちも、太刀をぬき、矢をつがえた。具覚房は手をすり合わせて、「正体もなくすほどに酒に酔った者です。御無理でも許してもらえないでしょうか」と言うと、(奈良法師の一行は)嘲りながら通り過ぎて行った。この口取りの男は具覚房に向かって、「御房は残念な事をするものだ、俺は酔ってなどいない。手柄を立てようとして、抜いた太刀が、無駄になってしまった」と怒り、(具覚房を)めった斬りにして馬から斬り落としてしまった。さて、(この男は)「山賊がいるぞ」と大声で騒ぎ立てたので、里人が大挙してその場に立ち向かったところ、(その男は)「俺こそ山賊だ」と言って、走りながら(太刀を)斬り廻したが、大勢で傷を負わせ、抑え込み縛り上げた。馬は血をあびて、宇治の大路の家に走っていった。(その家の主人が)仰天して、下男たちを駆け付けさせたところ、具覚房はくちなしの多く生えている原にうめいて伏しているのを探し出して、担いで連れてきた。危ない命を取りとめたが、腰を斬られて、障害を持つ身となった。

 

第八十八段 小野道風筆和漢郎詠集のこと

 ある者、小野道風(たうふう)の書ける和漢郎詠集(わかんらうえいしふ)とて持たりけるを、ある人、「御相伝、浮ける事には侍らじなれども、四条大納言撰ばれたる物を、道風書かん事、時代や違(たが)ひ侍らん。おぼつかなるこそ」と言ひければ、「さ候へばこそ、世にありがたき物には侍りけれ」とて、いよいよ秘蔵(ひさう)しけり。

 

現代語訳

 「ある者が、小野道風(どうふう:平安中期の書家)の書いた和漢郎詠集(わかんらうえいしふ)を持っていたのを、ある者が、「先祖からの言い伝えで、根拠のない事でございますまいが、四条大納言が撰ばれた物を、道風が書いたと言う事は時代的に違うのではないでしょうか。その点がどうも不審であります。」と言うと、「それでございますからこそ、世に希な珍しい物であります」と言って、特に秘蔵とされた。」。

※小野道風(どうふう:平安中期の書家。醍醐・朱雀・村上の三朝に歴仕し、康保三年〔966〕、七十一歳で没。藤原佐理〔すけまさ〕・同行成と共に三蹟と称され、和洋の基礎を築いた。

和漢郎詠集:藤原公任(きんとう)撰。