鎌倉散策 『徒然草』第八十段から第八十四段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第八十段 武を好むべからず

 人ごとに、わが身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵(つわもの)の道を立て、夷(えびす)は、弓ひくすべ知らず、仏法師知りたる気色し、連歌(れんが)し、管絃をたしなみ合へり。されど、おろかなる己の道よりは、なほ人に思ひ悔(あなづ)られぬべし。

 法師のみにあらず、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、かみざままでおしなべて、武を好む人多かり。百(もも)たび戦ひて百たび勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は、運に乗じてあたをくだく時、勇者にあらずといふ人なし。兵(つわもの)尽き、矢きはまりて、ついに敵に降(くだ)らず、死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近きふるまひ、その家にあらずは、好みにて益なきことなり。

 

現代語訳

 「誰もかれも、わが身に関係の薄い事ばかりを好みむ。法師は兵(つわもの)の道をもっぱら行って、(荒々しい)東国の武士は弓を引くすべを知らず、仏法を知りたい様子で、連歌を行い、音楽を一様にたしなんでいる。しかし、いい加減にしている自分の専門よりも、いっそう人に軽蔑されるに相違ない。法師だけではなく、公卿の三位以上の者・昇殿を許された、と言った上層の方たちまで、武を好む人が多い。百回戦い百回勝っても、武勇に優れていると名声を決めることができない。それは、幸運に乗じて敵を破った時は、勇者であるという人はいない。兵が尽きて、矢を打ち尽くし、最期まで敵に降らず、平然として死についた後、始めて真の勇者の名を世間に示すことの出来る道である。生きている間は、武勇を誇らず。(この武勇は)人の道に遠く、鳥獣の争いに近い振る舞いであって、武士の家に生まれたものでなくては、好んでも無益な事である。

 

第八十一段 調度の趣味

 屏風・障子などの絵も文字も、かたくななる筆やうして書きたるが、見にくきよりも、宿のあるじのつたなく覚ゆるなり。

 大方、持てる調度にても、心劣りせらるる事はありぬべし。さのみよき物を持つべしとにもあらず。損ぜざらんためとて、品なく見にくきさまにしなし、珍しからんとて、用なきことどもし添へ、わづらはしく好みなせるをいふなり。古めかしきやうにて、いたくことことしからず、つひえもなくて、物がらのよきがよきなり。

 

現代語訳

 「屏風や障子などの絵も文字も、やぼくさい筆遣いで書いてあるそのものが、見にくいというよりも、その家の主がつまらない者に思える。

 大方、持っている調度も、(持ち主に対し)幻滅を感じさせることがあるに違いない。(と言って)良い物を持たなければならないと言う訳でも無い。傷まないようにと言って、品が無く不体裁にこしらえあげ、珍しく見せようとして、無用の飾りなどを付け、わづらわしくしく趣向をこしらえているのを言うのだ。古めかしいような、あまり大げさでなく費用もあまりかからないで、その物全体の品格が良い物が良いのだ。

  

第八十二段 不具なるこそよけれ

 「うすものの表紙は、とく損ずるがわびしき」と人のいひしに、頓阿(とんあ)が、「羅(うすもの)は上下(かみしも)はつれ、螺鈿(らでん)の軸は貝落ちて後こそ、いみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりて覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを、見にくしといへど、弘融僧都(こうゆうそうづ)が、「物を必ず一具にととのへんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」といひしも、いみじく覚えしなり。

「すべて何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、おもしろく、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず作りはてぬ所を残す事なり」と、ある人申し侍りしなり。先賢のつくれる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。

 

現代語訳

 「(羅とか紗などの薄い絹織物の巻物の)表紙は、すぐに傷むのが困る」とある人が言う。(時宗の僧)頓阿が、「羅(うすもの)は上下の部分がほつれ、螺鈿の軸は貝が落ちた後こそ、素晴らしい」と申されておられる事こそ、見上げたものだと感心した事だ。(数冊で)一部としてまとめた草子などの同じ体制でないのを見にくいと言うが、(仁和寺の僧)弘融僧都が、「ものを必ず人揃えに揃えようとするのは、つまらない者のする事である。不揃いなのが良い」というのも、大したものだと思った。

「全ての物が、物事の完備しているのは、あまり良くない事である。しのこした事を、そのままにしておいてあるのは、おもしろく、命が伸びる気持ちがするものだ。内裏が造られるにも、必ず未完成なところを残している」と、ある人が申されておられる。昔の賢人の作る内典や外典の書にも、章段の欠けている事が随分とございます。

 

(鎌倉 長谷寺十二月ライトアップ)

第八十三段 亢龍の悔

 竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに、何のとどこじょりかおはせんなれども、「めづらしげなし。一上(いちのかみ)にて止みなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣(とういんさだいじん)、このことを甘心(かんしん)し給ひて、相国(しょうこく)の望みおはせざりけり。

「亢龍(かうりよう)の悔いあり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盗みりにして哀ふ。よろづのこと、さきのつまりたるは、破れに近き道なり。

 

現代語訳

 「竹林院入道左大臣殿(西園寺公衡)が、太政大臣に昇進になるのに、何の差し障りもおわりにならないはずであるが、「珍しくもない。一上(左大臣の異称)にて止めておこう」と、出家してしまった。洞院左大臣(洞院実泰)は、この事に感服なさって、相国(太政大臣の唐名)になろうという望みはおありにならなかった。

「亢龍の悔いあり(『易経』の乾掛、上九にみえる。天上へ昇りつめた龍は降るよりほかないので「悔いあり」と言った。)」とか言われた。月満ちては欠け、物が盛んになると悲しむ。何時の世にも、先の行き詰まっているのは、破滅に近い道理なのである。」。

 

(鎌倉 建長寺三解脱門内部)

第八十四段 優に情けありける三蔵

 法顕三蔵の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に伏しては漢の食(じき)を願ひ給わりける事を聞いて、「さばかりの人の、むげにこそ心よわき気色を人の国に見て給へけれ」と人の言ひしに、弘融僧都、「優に情けありける三蔵かな」といひたりしきこそ、法師のやうにもあらず、心にくく覚えしか。

 

現代語訳

 「法顕三蔵(三蔵法師)が、インドの天竺へ渡り、故郷の扇を見ては悲しみ、病を患った時には漢(中国の)食事を願い受けることを聞き、「あれほどの人が、ひどく気弱な気持ちになっているのを外国でお見せになったものだ」とある人が言うと、弘融僧都(京都仁和寺の僧)は、「優しく人間味のある三蔵である」と言われたのは、法師のようにでもなく、むしろ奥深さがある人に思った事である。」。