鎌倉散策 『徒然草』第七十四段から第七十九段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第七十四段 変化の理を知らぬ人々

 蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る。高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝(あした)に起く。いとなむところ何事ぞや。生(しょう)をむさぼり、利を求めて止む時なし。

 身を養ひて、何事をか待つ。期する処、ただ老いと死とにあり、その来たる事速(すみ)やかにして、念々の間に止(とど)まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑(まど)へる者は、これを恐れず。名利(みやうり)におぼれて、先途(せんど)の近き事をかへりみねばなり。愚かなる人は、またこれを悲しぶ。常住むならんことを思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)を知らねばなり。

 

現代語訳

 「蟻のように集まり、東西に急ぎ、南北に走る。身分の高い者がおり、低い者がいる。老いた者がおり、若い者もいる。行く所もあれば、帰る家もある。夜に眠り、朝に起きる。このようにして世間の人々がせっせと努めているのはいったい何事か。(あくまで)長生きをしたいと思い、利益を求めて止まないからである

 一身を大切にして養生して将来に何を期待しようと言うのか。あてにして待つことが出来るのは、ただ老いと死だけである。その来たる事はあまりにも早く訪れ、一瞬の間も待ってはくれない。 老いと死を待つ間。何の楽しみがあるのだろう。迷っているものは、老いと死を恐れない。名誉や利益に目がくらみ、先に進行く近くにある事を顧みないからである。愚かなるものは、また老いと死を悲しむ。永久不変であることを思い、一切の事物が絶え間なく変わってゆくという理法を知らないからである。」。

 

第七十五段 閑居生活の意義

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。

 世にしたがへば、心、外の塵に奪われて惑ひやすく、人に交はれば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。人に戯(たわぶ)れ、物に争ひ、一度は悩み、一度は喜ぶ。そのこと定まれる事なし。分別みだりに起こりて、得失やむ時なし。惑ひの上に酔(ゑ)へり。酔ひの中に夢をなす。走り急がはしくしく、ほれて忘れたる事、人みなかくのごとし。

 いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しず)かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活(しやうくわつ)・人事(にんじ)・伎能(ぎのう)・学問の諸縁を止めよ」とこそ。摩訶止観(まかしくわん)も侍れ。

 

現代語訳

 「ただ一人居て、(何をすることの無い所在無さを)辛く思う人は、いかなる心境だろう。心が他の事にまぎれる事なく、ただ一人である事こそ良い。

世間に順応して行動すると、心の外部にある心を汚すもの(色・声・香・味・触・法の六塵)に迷いやすく、人と親交を持てば詞は、他人の耳に逆らわないように努めて、全く本意と違った事を言ってしまう。人と触れ合えば、人と争い。ある時は恨み、ある時は喜ぶ。そうした心の動きは決まった事ではない。利害得失に対する思慮判断が起こり、損得の念が止む時はない。迷いの上に迷う。清浄でない状態で夢を見ているようなものだ。走って忙しく、ぼうっとして、自己の本心を忘れている事は、人は、皆このようである。

 いまだ真の仏教を悟らなくても、俗界との係わりを離れて身を静かにし、世事に関係せず、心を安らかにする事こそ、一時的にしろ生を楽しむ物と言う事が出来よう。「生活(しやうくわつ:生計を立てるためにあくせくと働く事)・人事(にんじ:人との付き合い)・伎能(ぎのう:技術芸能)・学問の諸縁を止めよ」と言われる事こそ、隋の高僧智者大師智顗(ちぎ)の天台宗の観心(自分の心の本性を明らかに観照すること)を説いている。」。

 

(鎌倉 寿福寺)

第七十六段 法師は人にうとくてありなん

 世の覚え花やかなるあたりに、歎きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、ひじり法師の交わりて、言ひ入れたたずみたるこそ、さらずときもと見ゆれ。

 さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。

 

現代語訳

 「世間からもてはやされて、花やかな生活をしている人の下に、不幸があるとか喜びごとがあるとかして、人が多く行き交う中に、(寺院に所属しない遁世の)聖法師が交わい、案内を乞うて門口にたたずんでいるのは、そんなことをしなくてもと思われる。

 どのような理由があるにしても、法師は人に疎遠であるのが良い。

 

(北鎌倉 東慶寺)

第七十七段 いろうべきにはあらぬ人

 世の中に、そのころ人のもてあつかひぐさに言ひ合へる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられぬ。ことに、かたほとりなるひじり法師などぞ、世の人の上には、わがごとく尋ね聞き、いかでばかりは知りけんと覚ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。

 

現代語訳

 「世の中で、当時の人の噂の種として、話し合っている事を、無関係であるべき人が、良くも内部の立ち入った事情を知っており、人にも語り、尋ね聞いたりする事が納得できない。特に、片田舎に住んでいる聖法師などは、世間の身の上に関して、自分の事のように尋ね聞き、どうしてこれほどまで詳しく知ったのであろうか不思議に思えるほど、しゃべり散らすようだ。」。

 

第七十八段 話題について

 今様の事どもの珍しきを、言ひ広めてなすこそ、またうけられぬ。世にこと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。いまさらぬ人などある時、ここもとに言ひつけたることぐさ、物の名など、心得たるどち、かたはし言ひかはし、目見あわせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世なれず、よからぬ人の、必ずある事なり。

 

現代語訳

 最近にあった事で珍しい事を、言い広めてもてはやすのは、これもまた納得できない。世間で

言い、(そのことを)知らない人は、おくゆかしい。 はじめて来た人などある時に、自分たちの仲間で話しなれている話題や、物の名前や、その意味が分かっている同士が、その一部だけを言い合って。目を見あわせ、笑うなどして、その意味が分からない人に何のことかと感じさせることは、世慣れておらず、教養のない人の、必ずやる事である。

 

(鎌倉 浄光明寺)

第七十九段 深く立ち入るべからず

 何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り、顔にやは言ふ。かた田舎よりさし出でたる人こそ、よろづの道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に 

恥づかしきかたもあれど、みづからいみじと思へる気色(けしき)、かたくななり。

よくわきまへたる道には、必ず口重く、問わぬ限りは言わぬこそいみじけれ。

 

現代語訳

 「何事も深く立ち入らず、よくは知らないふうをしているのが良い。良き人は、知っている事であっても、そうむやみに物知りの顔に言う事があろうか。片田舎から出て来たばかりの人は、あらゆることに通じているふうに返答するものである。そういう人は、こちらが本当に恥ずかしくなるような優れた点はあるが、その本人が自分でも偉いと思っている様子が、見苦しいものである。自分が知り尽くしている方面の事は、必ず発言が慎重で、問われない限りは言わない事こそ素晴らしいのである。」。

 

(鎌倉 長谷寺)