鎌倉散策 『徒然草』第五十三段から第五十五段 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第五十三段 三足のかえ

 これも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残(なごり)りとて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入るあまり、傍(かたはら)なる足鼎(あしがな)をとりて、頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事かぎりなし。

 しばしかなでて後、抜かんとするに、大方ぬかれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。とかくすれば、頸のまわり欠けて、血垂(た)り、ただ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪えがたかりければ、かなわで、すべきやうなくて、三足なる角の上で、かたびらをうちかけて、手をひき杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり、率て行きける、道すがら人の怪しみ見ること限りなし。医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやう)なりけめ。物を言ふも、くぐもり声に響きて聞こえず。「かかることは、文にも見えず、伝えたる教へもなし」と言へば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。

 かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失とすとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ、力を立てて引き給へ」とて、藁(わら)のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

 

(京都高尾 高山寺)

現代語訳

 「これも仁和寺の法師の話であるが、寺に使われていた少年が髪を剃って僧になるため名残として、各自の芸などをして興ずると、酒に酔って興にはいるあまり、かたわらの足鼎(あしがな:三本足のかなえで飲食物を似るのに用いた金属の器をとって)、頭にかぶったところが、つかえるような感じがするのを鼻を押し開いて、顔をさし入れて、一座の真ん中に舞いながら出て行ったところ、全員が面白がることと言ったらこの上なかった。少しの間舞った後で(鼎)を抜こうとしたが、一向に抜けなかった。酒宴は興が覚めて、どうしたらよいか迷った。あれこれと試し、頸のまわりを傷つき破れて、血がしたたり、(鼎の中一杯に)腫れに腫れあがった。息も出来なくなってきたので、打ち割ろうとしたが、簡単にわれず、響いて堪えがたくなって、鼎を割る事も出来ずに、どうにもしようがなくて、(鼎をさかさまにかぶっていたので)鼎の三本の足が、角のように飛び出している上に、布をかけて、手をひき杖を突かせて、京にいる医師のもとに、連れて行き、道すがら怪しい人のように見られたに違いない。医師のもとに行き、向い合ったありさまは、さぞかし奇妙な様子であったろう。物を言うものの、口の中で籠ってはっきりしない声で聞こえなかった。(医師も困って)「このような事は、医書にも記されておらず、口伝の教えもない」と言えば、また仁和寺へ帰って、親しい者や、老いたる母など、寝ている人の枕元によって泣き悲しんだが、(本人は)聞いていようとも思われない。

 しばらくして、ある者が言うには「たとえ耳鼻こそ切れ失おうとも、命ばかりはどうして助からない事があろうか。ただ、力を込めて引き離せ」と藁の穂の芯を周りに差し入れて、鼎のかねと首との間に隔手を造って、首も引きちぎれるばかりに引っ張ると、耳鼻欠けて穴が開いたが抜くことが出来た。危ない命が助かって、長い間患って床に伏していたという。

 

(京都 仁和寺)

 

第五十四段 御室のちご

 御室にいみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘い出して遊ばんとたくむ法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子(わりご)やうのもの、ねんごろにいとなみで出でて、箱風情(ふぜい)の物にしたため入れて、ならびの岡の便よき所に埋みおきて、紅葉(もみじ)散らしかけなど、思い寄らぬ様にして、御所へ参りて、児をそそのかし出でにけり。

 うれしと思いて、ここかしこに遊びめぐりて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困(こう)じにたれ。あはれ紅葉を焼かん人もがな。験(げん)あらん僧たち、祈りこころみられよ」など言ひしろひて、埋みつる木のもとに向きて、数珠(ずず)おしすり、印ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまいひ、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違(たが)ひいたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされたれども、なかりけり。埋みけるを人の見おきて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくくいさかひ、腹立ちて帰りにけり。

 あまりに興あらんとする箏は、必ずあいなきものなり。

 

(京都 仁和寺)

現代語訳

 「(仁和寺に預けられて、学問や給仕をする)美しい少年がおり、何とかして誘い出して遊ぼうとたくらむ法師たちがおり、芸(歌、舞、御曲)の得意とする法師どもを仲間に引き入れて、しゃれた弁当箱の箱のような物に、丁寧にこしらえあげた(料理)箱のようなものに入れて、双が岡(仁和寺南の丘陵)の都合の良い所に埋めておき、紅葉を散らしておおい隠し、(そのような所に破子埋まっているとは)想像もできないようにして、(仁和寺の中で法親王の居住する御殿に参り、少年をうまく誘い出してしまった。(法師たちは美少年をうまく連れ出す事が出来て)うれしく思ったのである。あちらこちらと遊びめぐり、先ほどの苔が一面に生えてリる所に行って、「ひどくくたびれました。あれは紅葉を焚いて酒を温めてくれる人がおればよいのにな。霊験あらたかな法師達が、祈禱を行ってください」等と言い合って、(弁当箱を)埋めてある木の下に向かって、数珠を持ち、印を大げさに結びんだりした。仰々しくふるまい、木の葉をかきのけたけれど、まったく箱の物が見えない。(埋めた)場所が違うのかと思って、掘らない所も無いくらい山を探し回ったが見つからなかった。埋めた人を見て、法師たちが御殿へ参っている間に盗んだのである。法師達は、その場をつくろう言葉もなく、口汚く争って、腹を立てて帰っていった。

 あまりにも面白くしようとする事は、必ずつまらない結果になる事だ。

 

(鎌倉 旧川喜多邸〔旧和辻邸〕)

第五十五段 家の作り様

 家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる場所にも住まる。暑きころ、わろき住居は堪へがたき事なり。深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、はるかに涼し。こまかなる物を見るに、遣戸(やりど)は蔀(しとみ)の間よりも明(あか)し。天井の高きは、冬寒く、燈火(ともしび)暗し。造作は、用なき所をつくりたる、見るも面白く、よろずの用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。

 

現代語訳

 「家の作り方は、夏に適するように作るのが良い。冬はどのようなところでも住める。暑い頃、不適当な住居は堪えがたい事になる。(庭の中に流れる遣水も)深く流れの無い水は涼しくない。浅くて流れる遣水はすごく涼しい。細かい所を見ると遣戸(引き違える違える開閉する戸)は、蔀(しとみ:格子の裏に板を張った戸で、上下二枚のうち、上の一枚を上に釣り上げて光線を室内にいれる)の間より明るい。天井の高いのは、冬寒く、燈火も暗い。家の作りは、特に必要でない所をつくり、見るのも面白く、多くの役にも立って良いとされ、人々が評し合う事であった。」。

 

(鎌倉 旧川喜多邸〔旧和辻邸〕)