鎌倉散策 『徒然草』第五十六段から第五十九段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第五十六段 話し方のよしあし

 久しく隔りてあひたる人の、わが方にありつる事、かずかずに残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、ほど経て見るは、恥づかしからぬかは。つぎさまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きていふを、おのづから人も聞くにこそあれ。よがらぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆おなじく笑ひののしる、いとらうがわし。をかしき事をいひてもいたく興ぜぬと、興なきことをいひてもよく笑ふにぞ、品のほどはかられぬべき。

 人のみざまのよしあし、才ある人はその事など定めあへるに、己(おの)が身をひきかけていひ出でたる、いとわびし。

 

現代語訳

 「長い間離れて久しぶりに会う人に、私のあった出来事を、あれもこれもと残りなく語り続けることは、興の覚めることだ。離れておらず慣れ親しんだ人でも、しばらくたって会うのは、なんとなく気がねのされない事があろうか。教養や品位の劣っている人は、少しよそに出かけても、今日の出来事を息をつく暇もなく語り続ける。身分の高く教養があり、上品な人の語りは、人それぞれであるが、人に向いて話し、自然に他の人も聞いてしまっている。教養が低く下品な人は、誰に対してともなく、たくさんの人の中に乗り出して、見た事のように語りだせば、(それを聞く人々も)皆同じく笑い騒ぐのは、大変騒がしい。おかしな事を言ってそれほど笑ったり騒いだりしないのと、興なき事をよく笑う事で、未分や教養の程度も推測することができる。

 人の容貌・風采の良し悪しは、学問のある人はその事など論評し合う場合に、自分の事を引き合いに出して話すために、本当に嫌な気持ちがする。」。

 

第五十七段 歌物語の歌のわろき

 人の語り出たる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。すこしその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。

 

現代語訳

 「人の語られる和歌に関する物語の、歌の劣っているのは、(その歌の)期待通りに行かなくがっかりする。すこし歌道に心得ある人なら、不出来な歌を素晴らしいと思って語りはしない。すべて、たいして知らない方面のことについて話すのは、傍で聞いていても、(はらはらして)聞きづらいものである。」。

 

第五十八段 出家遁世の功徳

 「道心(どうしん)あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人の交わるとも、後世を願はんにかたるべきかは」というふは、さらに後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず生死(しやうじ)出でンと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家をかいりみる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑(しず)かなからでは道は行じがたし。

 そのうつはもの、昔の人に及ばず、山林に入りても、飢をたすけ嵐を防くよすがなくては、あられぬわざなれば、おのづから、世を貪(むさぼ)るに似たる事も、たよりにふればなどかならん。さればとて、「そむけるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度道に入りて世をいとはん人、たとひ望ありとも、いきほいある人の、食欲おほきに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣、一鉢のまうけ、あかざのあつ物、いくばくか人の費えをなさん。求むる所はやすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪にはうとく、善に近づくことのみぞ多き。

 人の生まれたらんしるしには、いかにもして世を遁(のが)れんことこそ、あらまほしけれ。ひとえに貪(むさぼ)る事をつとめて、菩提におもむかざらんは、よろずの畜類にかはる所あるまじくや。

 

現代語訳

 「仏道を信じて仏の悟りを得ようとする心があれば、どこに住もうと構わない。死後の安楽を願い仏道に専心する事に何のさしつかえがあろうか」というのは、全く後世を願うと言う事の本来の意味を心得ていない人である。本当に、この世をはかなく思い、必ず生死の輪廻の迷いの境地から離脱して悟りの境地に達する事を思うには、何が面白くて、朝夕主に仕え、家をかえりみるというような事に気が進もうか。心は縁(結果を引き起こす直接的原因を「因」といい、これを外からたすける間接的原因を縁という)に引かれて移り変わる物なので、静かで無ければ仏道を修行ることはむずかしい。

 (今の人の)器量が、昔の人に及ばず、山林に入っても、飢えをしのぎ嵐を防ぐ手段を工夫しなければ、生きてゆく事が出来ず、たまには、世俗的欲望に執着しているように見えることも、場合によっては無い事であろう。「従って(そんなことでは)遁世したかいがない。それくらいならば、なぜ世を棄てたのだ」などというのは、無茶な事だ。何と言っても、一度仏道に入ったならば世を棄てようとする人は、たとえ欲望があっても、権勢のある人の、食欲の多いのと比べるべくもない。紙の衾(紙で夜具で、夜具の中では最も粗末な物)、麻で作った法衣、一鉢の食物、藜羹(れいこう:アカザ科の一年草若葉を食用とし、粗末な副食物の意味に用いられる)の吸い物(という程度の物なら)、世間の人出費になろうか。求める物は簡単に手に入り、その心は愚に満足するであろう。出家遁世者としての自分の姿に恥じるところもあれば、そうは言っても、悪には縁遠くなり、善には近づくが多くなる。

 人として生まれたそのかいは、出家遁世する事こそ、理想である。ひたすら貪る事を努めて、極楽に往生して仏果を得なければ、多くの畜生の類と異なるところがないのではなかろうか。」。

 

第五十九段 命は戸を待つものか

 大事を思ひ立たん人は、去りがたく心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばしこの事はてて」、「おなじくは、かのこと沙汰し置きて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末難なくしたためまうけて」、「年来(としごろ)もあればこそあれ、その後待たん、ほどあらじ。物騒がしからぬやうに」などと思はんには、えさらぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆このあらましにてぞ一期(いちご)は過ぐめる。

 近き火などに逃ぐるひとは、「しばし」とやいふ。身を助けんとすれば、恥をもかへりみ、財(たから)をも捨てて逃れ去るぞかし。命は人を待つものかは、無常(むじょう)の来たる事は、水火の攻むるよりもすみやかに、逃れがたきものを、その時、老いたる親、いとなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。

 

現代語訳

 「仏道(修行により悟りを開く修行)大切に思うほどの人は、やむを得ぬことで気が掛かる事があっても本来の志を捨てずに、そのまま(気にかかる事を)そっくり捨てるべきである。(例えば出家をすることは)「もうしばらくこの事が終わってから(出家しよう)」、「同じ事なら、この様に、始末をつけておいて(出家しよう)」、「これこれの事は、(後になって)人の嘲りや笑われるかもしれない。将来に非難が起こらないように確りと処置しておいて(出家しよう)」、「これまでの長い間この様に一応やって来たのだから、あの事の始末が付くのを待ったところで、そう時間はかかるまい。せっかちでないように(出家しよう)」などと思うとしたなら、避けられない事ばかりが益々重なって、俗事の無くなる事も限りなく続き、発心(出家を思い立つ)する日もあるはずがない。大体において世間の人を見ると、多少道理の解るという程度の人は、皆こうした心づもりだけで一生は過ぎてゆくようだ。

 近所の火事などで逃げる人は「しばらく待って」と言おうか。我が身を助けようとするならば、恥も構わず、財産を持捨てて逃げ去るのだ。命は人の都合を待ってくれるだろうか。死が襲ってくる事は、水や火が襲いかかるよりも早く、逃れたいと思うものなのに、その時、老いたる親、幼い子、主君の恩、人の情け、それらの物を捨てがたいとしても捨てずにいられようか。」。