鎌倉散策 『徒然草』第四十四段から第四十八段 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第四十四段 笛を吹く男

 あやしの竹の編戸のうちより、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣に濃き指貫(さしぬき)、いと故づきたるさまにて、ささやかなる童(わらは)ひとりを具して、遥かなる田の中のほそ道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつつ行けば、笛を吹きやみて、山のきはに惣門のあるうちに入りぬ。榻(しぢ)に立たる車の見ゆるも、都よりは目とまる心ちして、下人に問えば、「しかしかの宮のおはしますころにて、御仏事などさうらふにや」といふ。

 御堂のかたに法師どもまゐりたり。夜寒(よさむ)の風邪に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身にしむ心ちす。寝殿より御堂の廊にかよふ女房の追風用意(おひかぜようい)など、人目なき山里ともいはず、心づかひしたり。

 心のままに茂れる秋の野らは、おきあまる露にうづもれて、虫の音がごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは、雲の往来もはやき心ちして、月の晴れ曇ることさだめがたし。

 

現代語訳

 「粗末な竹で作った編戸の中から、たいそう若き男の、月の光で色合いは、はっきりしないが、光沢のある狩衣に濃い色の袴を着用し、たいそう由緒ありそうな様子で、少年一人を共に連れ、遥かに続く田の中の細道を、稲葉の露に濡れながら歩いていく。その間、笛を何とも言いようがないほどに、巧みに吹き興じている。ああ良い音だと聞き分けられる人もあるまいと思うにつけても、その男の行く先を知りたいと思い、目を離さずに行くと、笛を吹き止んで、山の際に惣門(大門)のある家に入っていった。榻(しぢ:牛車を牛から離した時、車の轅〔ながえ〕のはしを支えるための台)に立てた牛車の見えるが、都より目に付く感じがして、召使に尋ねたところ「これこれの宮様がご滞在中で、仏事に行っておられるのでしょう」と言う。

 貴族の庭内に建てられた仏堂の方に法師たちが参っていた。寒い夜の風に誘われて炊かれた香りの匂いも身に染みる心地がする。寝殿より御堂への廊下に通う女房の追風用意(おいかざえようい:自分の通った後に、良い香りが漂うように、たしなみとして衣服に香をたきしめておく)など、人目なき山里にもかかわらず心使いをしている。

 思う存分に茂った秋の庭は、言葉に余る一面の露に埋もれて、虫の音が恨み事のように、遣水の音がのどやかである。都の空よりは、雲の往来も早く思われて、月が晴れたり曇ったりと空の様子が絶えず移り変わり、定める事が出来ない。

※「虫の音の恨み事のように、遣水(庭園などに水を川から引き入れた流れ)の音がのどやかである」という比較が、面白い。虫の音の恨み事のようには、夏に育ち晩秋に命を絶える虫の音を虫の恨み言ととらえ、時の移り変わりのように、遣水の流れる音がそれを隠すように穏やかな音を発している。この比較が微妙に心を打つ。」。

 

第四十五段 榎木の増正

 公世の二位のせうとに、良覚僧正(りょうがくそうじょう)と聞こえしは、極めて腹あしき人なりけり。坊の傍(かたはら)に、大きなる榎の木ありければ、人、榎木僧正とぞ言ひける。この名しかるべからずとて、かの木をきられにけり。その根のありければ、きりくひの僧正と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡おほきなる堀にてありければ、堀池の僧正と言ひける。

 

現代語訳

 「藤原公世の二位の兄で、良覚僧正(りょうがくそうじょう:延暦寺大僧正)と申し上げた方は、極めて怒りっぽい人であった。僧坊の傍に、大きな榎木の気があったので、人は、榎木の僧正と言った。この名を宜しく無いとして、この木を切ってしまわれた。その根が残っていたので(世間の人たちは)、きりくひ(木の切り株)の僧正と言った。ましてまた腹が立った僧正は、切り株を掘って捨ててしまったので、その跡に大きな堀になっていたので、(今度は)堀池の僧正と言われた。

 

第四十六段 強盗の法印

柳原の辺に、強盗法印(ごうとうのほういん)と号する僧が住んでいた。たびたび強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。

 

現代語訳

 「(京都市上京区柳原町)柳原の辺りに、強盗法印(ごうとうのほういん:法印大和尚位の⋮で僧侶の最高の位)と人から呼ばれる僧が住んでいた。度々強盗に遭ったので(世間の人が)この名をつけたられた。」。

 

第七十四段 清水へ参る尼

 ある人、清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、いらへもせず、なほ言ひ止まざりけるを、たびたび問はれて、うち腹たちて、「やや、はなひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、やしなひ君の比叡山(ひえのやま)に児(ちご)にておはしますが、ただ今もやはなひ給はんと思えば、かく申すぞかし」と言ひきけり。有り難き志なりけんかし。

 

現代語訳

 「ある人が、清水寺へ参詣する際、老いた尼と途中で道連れになったが、道すがら「くさめくさめ(くしゃみが出た時に唱える、まじない文句)」と唱えながら行くと、「尼御前、何事をそのように仰られるのですか」と問いかけたが、返事もせず、なお唱え止まなかったので、何度も問われた。老いた尼は、腹を立てて「うるさい、くしゃみをした時は、この様にまじないをしなければ死ぬというので自分が乳母として養育する貴人の子が比叡の山に稚児としていらっしゃるのだから、今すぐにでもくしゃみが出そうに思えば、この様に申しているのです」と言った。

 世にも珍しいく特殊な心がまえである。

 

第四十八段 米親卿有識の振舞のこと

 (藤原の)光親卿、院の最勝講奉行(さいしょうかうぶぎやう)してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御(ぐご)を出だされて食はせられけり。さて食ひちらしたる衝重(ついがさね)を御簾の中へさし入れて、罷(まか)り出でにけり。女房、「あなきたな。誰にとれとてか」など申し合はれければ、「有識のふるまひ、やんごとなき事なり」と、返す返す感ぜさせ給ひけるとぞ。

 

現代語訳 

 「藤原光親卿、後鳥羽上皇の仙洞御所で行われた最勝講奉行(さいしょうかうぶぎやう)をして伺候していたのを、御前へ招かれて、天皇家の御食事を出されて共に食べられた。無造作に食べた食器等を乗せる衝重(ついがさね)を、(上皇のおられる)御簾の中に入れられて、退室してしまった。女房は、「まあ、汚い。誰に片付けよというのか」などと言い合ったところ、(上皇は)故実に通じた振る舞い、立派なものだ」と、繰り返し繰り返し感嘆あそばされたと言う事だ。」。