第十五段 旅―家を離れる
いずくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心ちすれ。
そのわたり、ここかしこ見あるき、ゐなかびたるところ、山里などは、いと目なれぬことのみぞ多かる。都へたより求めて文やる、「その事かの事、便宜(びんぎ)に、忘るな」など言ひやるこそをかしけれ。
さやうの所にてこそ、よろずに心づか樋せらるれ。持てる調度まで、よきは良く、能のある人、かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。
寺・社などに、しのびてこもりたるもおかし。
現代訳語
「どこでもよい場所でも、しばらく旅をしていると、清新な気持ちのするものである。旅先の周辺をあちらこちらと見て歩き、田舎めいた所、山里などは、まことに見慣れない事ばかりが多い。都へつてを求めて手紙をやるのに、「その事、あの事、都合の良い折にやるように、忘れないように」などと書く事は面白い。
旅先の田舎のような所にいる時ほど、万事に心配する者だ。持参していた調度までも都にいる時より良く見え、芸能の際のあるような人、美貌に良く見える人も、何時もより引き立って立派に見える。寺・社などに忍び込んで籠ったりするのも面白い。」。
第十六段 神楽・ものの音
神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。
おほかた、ものの音には、笛・篳篥(ひちりき)。常に聞きたきは、琵琶・和琴(わごん)。
現代語訳
「神楽こそ、優雅で、趣きの深いものだ。大方、楽器の音で面白い物は笛・篳篥(ひちりき:雅楽で用いる管楽器で中国から伝わる縦笛)。常に聞きたいのは琵琶・和琴(日本古来の六弦の琴)である。
第十七段 山寺に籠る
山寺にかきこもりて、仏に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心ちすれ。
現代語訳
「山寺にずっと参籠して、仏に勤行をする事こそ、所在なさも感ぜず、心の濁(煩悩)りも清まる心地になる。
第十八段 賢き人の富めるはまれなり
人は、おのれをつづまやかし、奢(おご)りを退けて、財を持たず、世をむさぼらざらんぞ、いみじかるべき。むかしより、かしこきひとのとめるはまれなり。
唐土に許由(きよいう)といひつる人は、さらに身にしたがえる貯えもなくて、水をも手にしてささげて飲みけるを見て、なりひさこという物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手にむすびてぞ水も飲みける。いかばかり心のうちが涼しかりけれん。孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束ありけるを、夕(ゆうべ)にはこれにふし、朝(あした)にはをさめけり。
唐土の人は、これをいみじと思えばこそ、しるしとどめて世にも伝えけめ、これらの人は、語りも伝ぶべからず。
現代語訳
「人は自分の生活を簡素にして、ぜいたくを辞め、財産を持たず世間的な名誉や利益をむやみに求めないのが、立派な事と言えよう。昔より、賢き人が富みを得たのはまれである。
中国にいた許由という人は、少しも身に着けた財産もなく、水も手ですくいあげて飲んでいるのを人が見て、ひょうたんという物を人が与えたところが、ある時、木の枝にかけていたが、風に吹かれて音を立てているのを聞き、やかましいと言って捨ててしまった。また、手ですくって水を飲んでいた。どんなにか心の中は清々しいかった事だろう。孫晨は、冬の季節にふすまが無くて、藁一束あったので夕べにはこれに寝て、朝にはとりかたずけた。中国の人は、これを大した事だと思えばこそ、書き留めて世に伝えたのであろうが、我が国の人はこうした話を伝えることもしないであろう。