第十一段 柑子(こうじ)の木
神無月の頃、栗栖野という所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道をふみわけて、心ぼそく住なしたる庵あり。木の葉に埋(う)もるる懸樋(かけひ)のしづくならでは、つゆおとなふものなし、閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らかしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
かくてもあらけられるよと、あはれにみゆるほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、すこしことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
現代語訳
「神無月(陰暦十月)の頃、来栖野(京都東山区山科)という所を過ぎて、ある山里を尋ねる事になった。人里離れた苔の細道をふみわけて、心ぼそくそこに住んでいる庵がある。木の葉に埋もれる懸樋(かけひ:水を引くために地上にかけかけ渡した樋(とい)にしずくの他には、何一つ音を立てる物もない。閼伽棚(あかだな:仏具を備える棚)に菊・紅葉(紅葉)などが辺りに散らばせているのは、やはり住む人が居るからだろう。
こんな風に住んでいられるものだと、すっかり感じ入って見てみると、向こうの庭に、大き柑子(こうじ:わが国で古くから栽培されていたこうじみかん)の木の、枝もしなるほどに(実が大きくなって)曲がっており、周りを頑丈に囲っているのは、少し興ざめて、この木が無かったなら良かったのにと思ってしまった。」。
(写真:ウィキペディアより引用 正徹本・永享三年(1431)写)
第十二段 心の友
おなじ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそうれしかるべきには、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向かひたらんは、ひとりあるここちやせん。
たがいに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など、あらそひにくみ、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思うへど、げには、すこしかこつかたも我とひとしからざらん人は、大方のよしなしごとと言わんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。
現代語訳
「自分と同じ心の人が居るとしたら、しんみりと語り合って、風雅の道の事でも、この世のはかない事でも、心おきなく話し合って心を慰める事があるとしたなら、それこそ嬉しい事であろう。しかし、そう言う人が居ないのであれば、相手の心に少しでも逆らわないように思って、向い合っているとしたならば、一人でいる恐怖感に襲われる心持がするだろう。
お互いに言いたいと思うほどの事は、何事であっても「なるほど」と聞く価値はあるものの、意見を異にする人がいるとしたら、そのような人には、「自分はそう思おうか、そうは思わない」など、言い争って相手を咎め、「こうだから、こうなのだ」と議論になるならば、所在ない気持ちもまぎれるだろうと思う。しかし、本当の所は、世の中の事に少し不平を言うような事でも自分と同意見でないような人は、世間一般のとりとめもない話をしているうちは良いとして、本当の意味の心の友には遥か隔てた所にいるに違いなく、寂しい事だ。」。
(写真:ウィキペディアより引用 吉田兼好『前賢故実』菊池容斎画 明治時代)
第十三段 見ぬ世の友
ひとり燈火(ともしび)のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を共とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文は、文選(もんぜん)のあらはれなる巻々、白氏文集(はくしもんじふ)、老子のことば、南華(なんくわ)の偏。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなることお多かり。
現代語訳
「一人さびしく燈火の下で書物を広げて、昔の人を友人とすれば、かくべつに心の慰めとなる事である。
書物は文選(もんぜん:周から梁に至る千年間の詩文を収める)の中の感銘深い巻々、白氏文集、老子の詞(老子道徳経の詞)、南華の偏(荘子の南華真経)。この国の学者たちが書いた書物も、古い時代に書かれた書物は、感銘深い事が多い。」。
第十四段 昔の人の詠める歌
和歌こそな歩を閣しきものなれ。あやしのしず・山がつのしわざも、いひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪の床」と言へば、優しく成りぬ。
現代語訳
「和歌こそやはり趣きの深い物だ。いやしい外民や木こりなどの行為でも、和歌として表現してみると面白く、恐ろしい猪も「横に寝る猪の(枯葉を集めた)床」と言えば、優しくなる。」。
このごろの歌は、一ふしをかしくい言ひかなへたりと見ゆるはあはれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばのほかに、あはれにけしき覚ゆるはなし。貫之が、「糸によるものならなくに」と射へるは、古今集の中の歌くづとかや言ひ伝えたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、すがた・言葉、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく言ひたてられたるも、知りがたし。源氏物語には、「ものとはなし」とぞ書ける。新古今には、「残る松さへ峰さびしき」といへる歌をぞいふなるは、まことに、すこしくだけたる姿にもや見ゆらん。されど、この歌も、衆議判の時、よろしきよし沙汰ありて、後にもことさらに感じ仰せ下されけるよし、家長が日記には書けり。
現代語訳
「このごろの歌は、一ヵ所ぐらい面白く表現しおおせていると見れる物もあるが、昔の歌のように、どういう物か、権外に、しみじみと情趣が感ぜられるものがない。貫之(紀貫之)が、「いとによるものならなくに」(『古今集』巻九「あずまへまかりける時、みちにてよめる 糸によるものならなくに別れぢの心ぼそくも思ほゆるかな」:糸のようにねじって細くするわけにもいかず、一人の分かれ道は細くなってしまう。そして一緒に心も細くなっていくことだ。)と詠んだのは、古今集の中の最も劣った歌と言い伝えられるが、今の世の人の詠むことができる歌のさまだと思えない。その当時の歌には、姿(格式)・言葉、この種の歌が特に多い。この歌に限って歌くずと言われるのは理解できない。源氏物語には、(糸による)「ものとはなしに」と(紫式部)が改造されている。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」(『新古今集』巻六「冬のきて山もあらわに木の葉ふり残る松さへ峰にさびしき」)といへる歌を歌くずと言うのは、本当に、一首の調べがなだらかでないように見える。しかし、この歌も御歌合せにおいて左右の歌の優劣を判定した時に、良い歌と判定され、後にも(後鳥羽院が)、非常に感心されてその旨の御教書を下され、源家長が日記に書いている。」。
歌の道のみ、いにしへに変わらぬなどいふ事もあれど、いさや。今も詠みあへるおなじ詞・歌枕も、むかしの人の詠めるは、さらにおなじものあらず、やすくすなほにして、姿もきよげに、あはれも深く見ゆ。
梁塵秘沙(りやうじんひせう)の郢曲(えいきょく)の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただいかに言ひ捨てたることぐさも、みないみじく聞ゆるにや。
現代語訳
「歌の道のみ、昔から変わっていないと言われるが、さあどうであろう。今も詠み使われる昔と同じ言葉・歌枕(和歌に詠みこまれる語句や題材で、歌題・枕詞・名所など伝統的に決められているもの)も、昔の人が読めるのは、決して同じものではなく平易で素直にして格式も美しく、悲しみも深く思える。
梁塵秘沙(りやうじんひせう:後白河院編著の平安期の歌謡を集成した物)の郢曲(えいきょく:神楽・催馬楽・風俗歌・朗詠・今様などの当時の謡い物の総称)の言葉こそ、また、心にしみる事は多いようである。昔の人は、ただいかに無造作に口に出した言葉でも、すべて素晴らしく聞こえるのであろうか。」。