『徒然草』は卜部兼好(兼好法師、兼好、吉田兼好)が書いた遺筆とされ清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』と共に日本三大随筆と称される。
「序段
つれづれなるままに、日くらし、硯に向かひて、心に移り行くよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
作品名でもある書き出しの「つれづれ」(徒然)は「やるべきことが無くて、手持無沙汰なさま」を意味する。また、「書きつく」は先に記された諸書に用いられた組み合わせであり、作品及び自己を卑下する謙遜の辞である。
(写真:ウィキペディアより引用 兼好法師造、後宇多院像)
兼好は弘安六年(1283)頃に生まれたとされ、鎌倉末期から南北朝期かけての官人・遁世者・歌人・随筆家である。治部少輔卜部兼顕の子。卜部兼名の孫とされる。吉田神社の神官の家系である吉田流卜部氏の系譜に連なるものと考えられ、江戸期以降には吉田兼好と通称されるようになった。しかし、その根拠となる家系図が吉田兼明の子・兼俱(かねとも)の捏造という見解もあるために出家者としての兼好法師、または単に兼好と呼称・表記され、兼好については不祥な点が多い。
(写真:ウィキペディアより引用 吉田神社)
伝えられている兼好は、堀河家の家司ととなり、正安三年(1301)に二条天皇が即位すると、天皇の生母のである西華門院(基子:もとこ、きし)が堀河具守(とももり)の娘であった事から六位蔵人に任じられている。従五位以下兵衛佐にまで昇進した後に三十歳前後で出家遁世するが、その時期や理由も定かではない。『徒然草』に最初に注目した臨済宗の歌僧正徹の歌論集『正徹物語』(文安五年(1448)頃から宝徳二年(1450)頃に成立)によると、後宇多法皇の死によるとされたが、元亨四年(1324)の法皇崩御前の正和二年(1313)ないしそれ以前に遁世したことが確認され、後宇多院崩御によるものではないと否定されている。兼好は法名として音読みの「けんこう(兼好)」と号した。
(写真:ウィキペディアより引用 上行寺、正圓寺)
兼好は、出家後に修学院や比叡山横川などで仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺うことができるが、あまり明確ではない。鎌倉には少なくとも二度訪問し滞在したとされ、鎌倉幕府御家人で、後に執権となる金沢貞顕と親交した。現在の横浜市金沢区の上行寺の境内にその時の庵があったことが伝えられている。南北朝期に現在の大阪府阿倍野区にある正圓寺付近に移り住み清貧自適な暮らしを営んだと伝えられ、正圓寺境内には「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲案跡」の碑が建つ。
『徒然草』は、序段を含めて二四三段からなり、文体は和漢混淆文と仮名文字中心の和文が混在しており、兼好の思索、や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者学に位置付けられる。兼好が仁和寺にある双ヶ丘(ならびがおか)に居を構えた為か、仁和寺に関する説話が多い。『徒然草』が伝える説輪の中には、同時代の事件や人物についての知る資料となる記述が散見され、歴史的史料としても広く活用されている。諸本には、
・正徹本系統、永享三年(1431)三月廿七日付、『徒然草』諸本中最古の写本。
・(伝)東常録(とうのつねより)自筆本系統、室町中期の書写とみなされている古写本
・細川幽斎本系統、幽斎自筆には疑問があるが慶長前後の古写本。
・烏丸光広本系統、慶長十八年(1613)八月十五日付、烏丸光広の奥書を有する古活字本。これらの四種に分類される。
(写真:ウィキペディアより引用 正徹本・永享三年(1431年)写)
新潮日本古典集成『徒然草』木藤才蔵氏校注の解説において、兼好を評しており、
「相手を説き伏せずにおかない、この気迫に満ちた文章は、正に中世独特のもので、読者に強い感銘を与えずにはおかないが、それも中世人にとって、死が文字通りの一大事であったことを示している。ところで、人が死を身近に意識した時、まず、何をなすべきであろうか。仏道が衆生を迷いの世界から救済し、死の恐怖から取り除いてくれるものであるならば、人は全てを放擲(ほうてき)して、仏道修行に専念すべきである。あれかこれかの選択に迷ういとまはない。必要なのは、決断する事である。兼好が『徒然草』において、繰り返し説いているのはこの道理である。仏教修行に専念するには、それにふさわしい環境が必要である。「道心さえあれば、家庭にあって世俗の人と交わっても、修行のさしつかえがあろうか」という考えを兼好は取ら無い。人がもし、この世をはかなみ、生死輪廻の冥界から離脱したいと思いたったならば、何が面白くて、朝夕君に仕え、家のために働く気になれようか。それに、人間の心は環境次第で移り変わるものだから、閑静にしていなくては仏道修行は難しい。その一方において、出家遁世者の境遇に身を置いた者は、欲望があっても、その欲はささやかなものに過ぎず、悪事に縁遠く、善に近づく事が多いのだ。このように考えた兼好は最後には、
「人に生まれたらんしるしには、いかにもして世を遁れん事こそ、あらまほしけれ。ひとへに貪る事をつとめて、菩提におむかざらんは、よろずの畜類に変わるところあるまじくや。(第五十八段)と極言する。」と記されている。兼好の人生観と美徳感を知ってもらいたいものであり、次回からは
『徒然草』二四三段の現代訳を綴っていくことにする。日により巡演する事もあると思われるが、最後まで完結したいと思う。