鎌倉散策 北条泰時伝 七十二、終章 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

   

 古代奈良・平安期においては中国の模倣という文化・政治・法体制を形成していた。しかし鎌倉期においては、新たに日本独自の文化が形成しだし、中世の間で確立していく。鎌倉新仏教の確立により、国家鎮護の仏教から庶民に至るまでの浄土・往生仏教が生まれた。平安期から文学作品が排出されるが、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』等の戦記物語、『曽我物語』等の唱導的英雄伝記物語、『徒然草』等の随筆集、『沙石集』の仏教説話集等の文学的な書籍や『愚管抄』の史論書等、『吾妻鏡』の史書等の書籍が確立している。また、お茶にしてみても栄西が中国から持ち帰り、京都高尾で明恵が栽培し、嗜好されるようになる。そして室町末期に茶の文化が形成され、安土桃山期において確立した。能の源は平安・鎌倉期に猿楽(さるがく:曲芸、物まね、寸劇、滑稽芸等の雑学)とされ、鎌倉中期から劇場式の芸が作られていった。鎌倉後期に寺社の法会や神事に翁猿楽という呪術的な芸能を演じることを主目的とする猿楽座が作られ、南北朝期にはそうした猿楽座によって、能と呼ばれる演劇も演じられるようになる。猿楽だけでなく、鎌倉期に優勢であった田楽も能を演じ、両者が競い合う中で能が成長して行き、室町期において三代将軍足利義満の後援を得た大和猿楽・結崎座(ゆうざきや)の観阿弥が能を大成させた。鎌倉期は日本独自の多くの者が発生する起点となったと理解する。

   

 鎌倉期は、政治法体制において、源頼朝から始まった武士の政権は、一時的に建武新政に変わるが、ほぼ七世紀後の江戸末期まで続いた。鎌倉期は一族郎党間による血で血を洗う権力闘争の激戦が繰り広げられたが、泰時の時代は安泰の時期であったかのように見られる。しかし、安泰は泰時の人間性、知力と施策によることは言うまでもない。しかし、朝廷との新たな関係と経済活動の拡大により諸処の問題が提起される。東国武士政権において訴訟・裁判制度の仕組もこの時期に変革して行き、その中で『御成敗式目』(貞永式目)の制定は、古代から続く天皇・朝廷による律令制を基本とした立法権・司法権の法治体制を御家人に限られるが制定した事は画期的な事であった。

 

 承久の乱で朝廷に勝利したことにより、東国政権の幕府が畿内・西国に力を及ぼし、全国的な武士の政権へと成長してゆく。その十一年後に『御成敗式目』の法典が制定されるが、武家政権が旧来の律令法(中国に倣って制定した基本法)とは異なる独自の法を作った事は、従来の朝廷とは別の新しい国家権力の成立を宣言するものではない。依然として、幕府と朝廷の二重政権により施政は続き、武士・御家人を対象とする法制定であり、朝廷には律令法が存在していた。しかし『御成敗式目』は、その後も江戸時代まで続く武士の政権においての基本的な法典と「武家の世」が到来した事を象徴するものであったとしている。

 私は鎌倉期において、武士が台頭し、朝廷と東国政権の幕府が存在する二重政権下の中で、承久の乱の勝利により、武士が一層の権力を持った。それらの要因で、朝廷による従来の律令制が武士に適応が困難となっていく。公家の道理・慣習、武士の道理・慣習、僧侶の道理、慣習、庶民(農民)の道理・慣習がそれぞれ異なり、存在していたからである。北条泰時は、御家人に対し、『御成敗式目』を制定した。そこには幕府の御家人に対し『式目』を制定する事で、文字認識が不得意な者にとって律令を理解させる事よりも、御家人に沿った罪と罰を知らしめ、それらを犯さないことで御家人を擁護する側面もあったのではないかと考える。

  

 時代や個人の捉え方で、『御成敗式目』と北条泰時の認識は大きく異なるのは当然であるが、事実認定の誤りにより、その意義を明確に変えてしまう事もある。過去の偉人たちは、常に現状を把握し、情報の取得と、それを認識する術を持って施策を繰り広げ、適切に対応していった。そして法という規範の上施策が行われる。しかし時代により様々な問題が現われ、多くの施策が実施されるが、問題の根本的解決手段になることは、さまざまであり、北条泰時もそうであった。特に現代の情報化社会において情報と認知作業を怠る事は、非常に危険である。北条泰時の経済対策・施策は後に有徳人・悪党を出現させ、皇位継承への介入は後の南朝北朝を生み出す。北条得宗家の確立は、北条一族においても格差を生み、御家人においても格差が生まれ、領地を持たない無住の御家人を作り出す。祖孫の時宗の時代の元寇以後の御家人の施策が補いきれず、経済的悪化が進む中、有徳人・悪党の存在が増加する。幕府の衰退がはじまり、鎌倉幕府が滅亡の一途をたどって行く。泰時の政策は、対処療法的には行われたが、根本的な解決策ではなかった事にも注意したい。  ―完―