仁治三年(1242)六月十五日、北条泰時は源頼朝が挙兵し、鎌倉入りした三年目の寿永二年(1183)に生まれた。六十年の人生の中、戦乱と複雑化する政治構造の中で、父の北条義時以上に政治施策を打ち出し道理という信念の下で施行していった。『吾妻鏡』では、泰時に関する美談が多く記され、疎石集では「まことに賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとして、万人の父母のような人である」と記している。『明恵上人伝記』においても泰時の人物像を窺い見ることができる。南北朝時代の南朝方の北畠親房も『神皇正統記』において徳政を称えた。しかし、北条氏が拡大する中、嫡流という北条得宗家を形成したのも北条泰時で、庶流に対しての施策は常に巧みで厳しい物があった。北条氏を他の御家人から守るためには、それを避けて施政を行う事は出来ず、得宗家という位置につき、拡大する北条一族においての分裂を避け、御家人においての将軍藤原頼綱を中心に結束させた。それは泰時の執政時に戦乱が無かったことで証明される。
仁治三年の政変は、仁治三年に発生した一連の政治的変動の総称で、京から始まる。仁治三年一月九日に四条天皇が不慮の事故にて宝算十二で崩御した。皇統断絶により、皇位継承者として九条道長・西園寺公経らが擁立する順徳上皇の子・忠成王(二十二歳)と、源定通・鎌倉幕府が擁立する土御門上皇の子・邦仁王(二十三歳)の二人であった。擁立において、承久の乱での張本である後鳥羽院・順徳上皇の血脈を継ぐ忠成王の即位は、当時まだ順徳上皇が佐渡で生きていたため、帰京問題も後に出る恐れがある。幕府にとって乱の火種になることを避けると言う事で、承久の乱に後鳥羽院の長子であったが、乱には無関係であった土御門上皇の子息・邦仁王の即位が必然であった。そして幕府の関与により邦仁王が践祚され、皇位を継承して後嵯峨天皇が即位した。九条道家は御嵯峨天皇が即位されると外戚でも執柄でもない立場となり引退が噂された。しかし、摂関や将軍の父大殿として御然たる力を保持していた。西園寺公経は当初は忠成王の擁立を指示したが、後嵯峨天皇になると同年六月三日に子息・前右大臣実氏の娘・姞子(きつし)を入内させて姻威として取り込んだ。九条道長の京での勢力が若干弱まり、後嵯峨天皇の叔父と言う事から、新政下においての朝廷政治は源定通・九条道家・西園寺公経らにより主導されていく。
鎌倉では北条泰時は仁治三年四月二十七日頃から病気となり、一時は回復し沐浴を行っていたが、その後に病状が再び悪化していった。同年五月十二日子の刻(十三日の午前零時頃)に鎌倉の飛脚が六波羅北方の北条重時の下に到着し、執権泰時の病気と出家をしたことを伝える。泰時の重篤の知らせを受けた重時は、御嵯峨天皇が制止したにもかかわらず翌十三日の子の刻(十四日の午前零時頃)に急遽鎌倉に下向した。泰時は自身の死後について最も信頼する六波羅探題北方の重時のみを鎌倉への帰還を命じたが、南方の時盛も鎌倉に下向したために、京における六波羅探題両方が不在になり、京からの連絡が滞る異常事態が発生している。時盛(佐助流北条氏の祖)は北条時房の長子であったが、母が未詳であり、時房の死後に時房流北条氏の惣領権をめぐる問題で、時房の政治的後継者の地位を望んだ。しかし泰時は、娘婿である弟の朝直(大仏流北条氏の祖)が時房の後継者として、泰時が任じられていた武蔵守を譲るなど厚遇を与えた。時房流北条氏を分裂させることで北条得宗家の政治的優位性と安定を図ったとする見解もある。時盛は、十二日に六波羅探題南方を解任されており、その為に鎌倉に下向したとも考えられる。また時盛は泰時の死後に連署就任を画策し、無断で鎌倉に下向したが、泰時の意思によるものか、幕府中枢の考えからか拒絶され、六月には突如出家して勝円と号し、その後は京に戻ることなく幕府から距離を置き幕政には一切かかわらなかった。時盛の子息も同様に幕政の中枢から遠ざかっている。
『平戸記』六月二十日条では同月十日には病状も回復し、食事も取れるようになっていたが翌十一日から再び病状が悪化して、十五日には高熱に苦しみながら泰時は歿する。享年六十歳であった。泰時の死後、嫡孫である十九歳の経時が執権に就任した。しかしその就任が、どの時にどの様に行われたかは定かではない。鎌倉では北条一門である泰時の異母弟・朝時・重時・有時・正村や甥の実時、従弟の時盛等がおり、御家人の中でも足利氏義、三浦寿村等も存在し、若輩の経時を後見する有力者が存在しなかった事で、互いに牽制しあう関係であったと考えられる。それらの政治的不安定要素により連署の設置が行えなかった要因であろう。泰時が生前の五月九日に出家しており、異母弟の朝時が翌十一日に出家し、十五日には足利義氏も出家し、時盛も六月に出家しているのは、幕府中枢の対応によるものであると考える。京都では、鎌倉で合戦が起きる噂が流れ、将軍頼経の御所が厳重に警護されているなどと伝えられた。また各所の関が固められ、鎌倉への通路が封鎖状態に置かれたことが記されている。不穏な動きを読み取ったのであろう。是等が鎌倉での仁治三年の政変であった。
経時が直ちに泰時の後継として執権を継いだように記される『百錬抄』・『保暦間記』等は、いずれも後年に編纂されているために、記述には注意が必要である。それら資料には翌寛元元年(1243)七月二十日には、北条朝直が義父である泰時から譲られた武蔵守を経時に譲ることが認められており、この時点で経時が名実とも泰時の後継者としての地位が確定した。経時の執権としての施政は、訴訟制度の改革などを行う。また将軍・頼経から子息・頼嗣に将軍職を譲り、『吾妻鏡』では頼経自身の考えによるものとされるが、幕府の主導によるものと考える。そして寛元四年(1246)閏四月一日に二十三歳で早逝し弟の時頼が執権を継ぎ、宮騒動、そして宝治合戦へと発展し、鎌倉が再び戦火に見舞われる事になる。 ―続く―