鎌倉散策 北条泰時伝 七十、北条泰時の死 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『鎌倉年代記裏書』五月九日条、『民経記』『平戸記』『鎌倉年代記』裏書の五月十三日条によると、北条泰時は仁治三年四月二十七日頃から病気となり、病状が次第に悪化していった。五月九日には出家を遂げ、上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)号したとている。泰時の家人・従者等五十人ほどが後を追って出家した。同月十二日子の刻(十三日の午前零時頃)に鎌倉の飛脚が六波羅の北条重時の下に到着し、執権泰時の病気と出家したことを伝えている。泰時の重篤の知らせを受けた重時は、御嵯峨天皇が制止したにもかかわらず十三日の子の刻(十四日の午前零時頃)に急遽鎌倉に下向した。

 

(写真:鎌倉市大船 常楽寺)

 『民経記』五月十三日条、『平戸記』五月十三日、十四日条には、泰時は鎌倉への帰還を六波羅探題北方の重時のみに命じたが、南方の時盛(北条時房の長子、佐助流北条氏の祖)も鎌倉に下向したために京における六波羅探題両方が不在という異常事態を招いている。時盛は北条時房の長子であったが、母が未詳であり、時房流北条氏の惣領権をめぐる問題で、時房の死後に政治的後継者の地位を望んだ。しかし泰時は、娘婿である弟の朝直(大仏流北条氏の祖)が時房の後継者として、泰時が任じられていた武蔵守を譲るなど厚遇を与えた。時房流北条氏を分裂させることで北条得宗家の政治的優位性と安定を図ったとする見解もある。時盛は、十二日に六波羅探題南方を解任されており、その為に鎌倉に下向したとも考えられる。また時盛は泰時の死後連署就任を画策し、無断で鎌倉に下向したが、泰時の意思によるものか、幕府中枢の考えからか拒絶され、六月には突如出家して勝円と号し、その後は幕府から距離を置き幕政には一切かかわらなかった。時盛の子息も同様に幕政の中枢から遠ざかっている。

 

 北条泰時の異母弟の朝時は、泰時が出家をした翌日、五月十日に出家を遂げている。『平戸記』五月十七日条、日頃疎遠な兄弟であるのに、「子細尤も不審、世以て驚く」と世間で噂されたと記されている。この時には鎌倉で将軍頼経を擁する反執権勢力が形成され、その中心的存在が朝時の名越流北条氏であった。その勢力を朝時が抑える事も出来ず、関与を否定する行動であったと考える。

 『平戸記』同五月二十日・二十六日・二十八日条には、京都では、鎌倉で合戦が起きる噂が流れ、将軍頼経の御所が厳重に警護されているなどと伝えられている。また各所の関が固められ、鎌倉への通路が封鎖状態に置かれたことが記された。しかし六月に入ると、鎌倉の不穏な情報が京に伝わらなくなり、順徳上皇側に傾倒する平経高の『平戸記』に目立った記述がなくなっている。是等は六波羅からもたらされる不穏な情報をつぶさに北条重時が鎮めたものと考えられる。

 

 北条時房死後、北条重時は相模守にして六波羅探題という重職に就き、幕府内では泰時に次ぐ地位に就いていたと考えられる。また探題就任前は、十年以上にわたり将軍頼経の近習筆頭である小侍別当を勤め頼経との関係も深かった。病に臥せる泰時に代わり京における動静を鎮める事が出来たのは重時以外には考えられない。泰時の最も信頼できる舎弟であり、それを発掘し育てた泰時の着眼が優れていた事に敬服せざるを得ない。重時は極楽寺流北条氏の祖であり、後に子息が赤橋流・常盤流北条氏に別れ、鎌倉幕府滅亡まで北条得宗家を補佐することになる。

 仁治三年(1242)六月十五日泰時歿す。享年六十歳であった。奇しくも、父北条義時、政子、大江広元、時実、時氏、竹御所と北条政権下枢要な地位にあった者が、六・七月に没しており、また泰時が歿した六月十五日は、二十一年前に承久の乱で宇治川に勝利し、後鳥羽院の王城の地に上洛を果たした日であった。『民経記』『平戸記』『百錬抄』によるとその最後は「前後不覚、御気妃の如し、人以て其の傍により付かず」と、誰も近づけぬほどの高熱で、承久の乱で三上皇が配流されたのも同じ季節で「顕徳院御霊、顕現」、後鳥羽院の怨霊による祟りではないかと風聞が流布したとある。『経光卿記抄』六月二十日条二に、死因について、日頃の疲労に加えて赤痢を併発させ、六月二十六日条では高熱に苦しみ、さながら平清盛の様だったと記されている。墓標は泰時が、妻の母のために建立した鎌倉市大船の常楽寺に置かれている。

 

(写真:鎌倉大船 常楽寺内 北条泰時の墓)

 執権泰時の後継者は、嫡孫の経時、十九歳であった。連署は置かれず、北条氏の間で、北条得宗家と侮りがたい庶流の北条氏の敵対勢力が存在する不安定要因を抱えた政権であった。 ―続く―