葉室定嗣は、正二位権中納言葉室光親の次男で、光親は後鳥羽院や順徳天皇の側近として仕えていた。承久三年(1221)におきた承久の乱では、後鳥羽院方に付き、北条義時の討伐の院宣を院の院使として執筆している。しかし、院の討幕計画の無謀さを愁い、幾度も諫言したが聞き入れられなかった。光親は清廉で潔白な人物と評されるが、乱後に首謀者の一人として捕らえられている。同僚で同じくとらえられた坊門忠信(故源実朝の正室西八条院の兄)の助命が叶った事に心から喜んだという。
『吾妻鏡』承久三年七月十二日条に、「按察卿(藤原〔葉室〕光親)は武田五郎信光が預かって下向した。そこに鎌倉の使者が駿河国車坂辺りで出会い、誅殺せよとの命を受け、甲斐の加古坂(現、山梨県南都登米郡山中湖村籠坂峠)において梟首した。時に年は四十六歳という。光親卿は(後鳥羽)寵臣であった。また家門の長で才能は優れていた。今度の経緯については特に戦々恐々の思いを抱いて、しきりに君(後鳥羽意)を正しい判断に導こうとしたが、諫言の趣旨がたいそう(後鳥羽の)お考えに背いたので進退が窮まり、追討の宣旨を書き下したのである。「忠臣の作法は、諫めてこれに随う」と言う事であろう。その諫言の申状数十通が仙洞に残っており、後日披露された時、武州(北条泰時)はたいそう後悔したという。」。
葉室定嗣は父・光親の事もあり、しばらくの間、昇進は滞ることになるが、寛喜三年(1231)に中宮権大進に任じられ、その後は実務官人として再び官歴を進めていった。仁治二年(1242)に蔵人頭、同三年(1242)に従三位、参議に任じられ、宝治二年(1248)には正三位、権中納言に就任している。後嵯峨上皇の院司として重用され、朝廷と六波羅探題との間の調整役を勤めた。これらの就任は父・光親の様な優れた才と、忠臣としての祖様が認められ、北条泰時の目にも止まったからであろう。『葉黄記(ようこうき)』は定嗣の日記で、「葉黄」という題名は筆者の苗字と自身が中納言であった事から中納言の唐名の黄門に由来する事から題している。『葉黄記』は、後嵯峨上皇に院司・院臣として朝廷側の立場から鎌倉中期の時代を活写した資料であり、上皇の院政に関する記述が多く、当時の政局趨勢(すうせい:物事がこれからどうなっていくかという、ありさま。なりゆき)等が記された。武家側の史書『吾妻鏡』と異なる記述も見られ、公武のそれぞれの立場を検証する資料として重要視されている。再び四条天皇が早去した寛元四年に戻る。
(写真:ウィキペディアより引用 九条道家像、四条天皇像)
『葉黄記』寛元四年(1246)三月十五日条に、「九条道家は幕府に急使を派遣して皇嗣を諮った」と記されている。皇位継承者としては土御門上皇の子・邦仁王(二十三歳)と順徳上皇の子・忠成王(二十二歳)の二人であった。討幕の張本である後鳥羽上皇の孫であるため元服さえも遂げていなかった。九条道家の姉・東一条院立子が、かつての順徳上皇の中宮であったために西園寺公経とともに、忠成王の即位を望んだ。道家は文暦二年(1235)に鎌倉幕府に対して後鳥羽法皇と順徳上皇の京都への帰京を提案しているが、幕府から拒絶されている。四条天皇が崩御して新天皇の擁立時に、佐渡に配流されていた順徳上皇はまだ健在であった。そのために忠成王が即位すれば順徳上皇が帰京する事も考えられ、遠流として佐渡に配流された順徳上皇にとっては、恨みの再燃も考えられ、乱の再発が最も恐れられた。一方の邦仁王には有力な後援者がおらず、近く出家をする事となっていた。しかし、前内大臣土御門(源)定通の妻が泰時の異母妹の竹殿あったとされ、邦仁王の母・通子は定道の妹とされている。また、泰時と幕府首脳は、九条道家のこれ以上の権力の集中を恐れて、幕府は阻止する必要があり、邦仁王の擁立を決定した。泰時の最も信頼した異母弟の六波羅探題・重時も尽力させ、洛中における邦仁王擁立の運動を水面下で加速させる。
仁治年正月十九日に北条泰時は、鶴岡八幡宮の神意によると称し、その旨を京都に伝えるよう、また順徳天皇の王子・忠成王の即位が実現する様な事があれば、退位させるという決意を以って東使二階堂幸義・安達義景を入京させた。両者は六波羅探題に向かった後、九条道家の一条殿、次に西園寺公経邸に参じて邦仁王を皇嗣とすることを申し入れる。『平戸記』において幕府が意に反して邦仁王を指名したのは、道家・公経共に「不請の気、炳焉(へいえん:明らかなさま)」であったと記す。
『平戸記』仁治三年正月十七日・十九日条によると、邦仁王の擁立について前内大臣土御門(源)定通から、「私に使者を関東に差し遣」わし、邦仁王指名を幕府に働きかけたと記されている。しかし、先述したように邦仁王の母源通子は定通の兄弟であり、定道の妻は北条泰時・重時の妹であった。北条泰時及び幕府首脳には邦仁王以外に皇位に就ける選択肢しかなく、定通の働きがけ皇位継承に影響を与えた事は少ないと考える。ただし、六波羅探題の重時の同母妹が定通の妻であるために義弟関係であった。そのために、洛中での邦仁王の擁立活動に二人が尽力したと考えられ、同月十九日に鎌倉からの東使が第一に六波羅に向かい皇嗣決定の報告を伝え、六波羅探題の重時を通じ源定通に伝えられたと考えられる。その理由として、反九条通家・西園寺公経の公卿たちに道家と公経を牽制するための対応ではなかったかと。順徳天皇に傾倒する平経高は『平戸記』仁治三年正月十七日・十九日条において定通が政治を行えば天下が衰徴する等酷評している。また葉室定嗣の『葉黄記』宝治元年(1247)九月二十八日条において「高才博覧」と言われた一廉の人物と評している。
(写真:ウィキペディアより引用 後嵯峨天皇像、源定通)
『民経記』・『平戸記』において翌二十日、邦仁王は祖母・承明門院の許しで元服し、武装した武士が警護する中、冷泉万里小路殿に渡御して践祚された。後嵯峨天皇が即位誕生した。幕府が帝位に干渉し、十二日間の空位が生まれる。即位による利害が大きい九条道家も西園寺公経も幕府の処置には反対し、また他の公卿たちからの不満も強かった。泰時は、定通を御嵯峨天皇の叔父として後嵯峨天皇を補佐する事を承認し、新政下においての朝廷政治は源定通・九条道家・西園寺公経らにより主導されていく。『民経記』仁治三年正月二十九日条に、九条道家は御嵯峨天皇が即位されると外戚でも執柄でもない立場となり引退が噂された。しかし、摂関や将軍の父大殿として御然たる力を保持していた。西園寺公経は『民経記』・『平戸記』に、当初は忠成王の擁立を指示したが、後嵯峨天皇になると同年六月三日に子息・前右大臣実氏の娘・姞子(きつし)を入内させて姻威として取り込んだとある。公経の変わり身が早い強かさを伺い見る事が出来る。
承久の乱で最も穏健的であった泰時であったが、後鳥羽・順徳院の環京と、順徳上皇の皇子の即位の反対は泰時の一貫した道理の通った政策が窺われる。乱後二十年を立ったこの時も承久の乱の再発を恐れたことが理解できよう。後嵯峨天皇即位は泰時の生涯を通じ最も繊細で策略に長けた施策であったといえよう。そして泰時の生涯において最期の施策であった。 ―続く―