鎌倉散策 北条泰時伝 六十八、安貞二年の政変と北条泰時 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』には、仁治二年から仁治三年の一年間の記述が記載されておらず、源頼朝の逝去した時も記述がなされていない。この一年の経過は、公卿の民部卿藤原経光の日記の『民経記(みんけいき)』、正二位民部卿平経高の日記の『平戸記(へいこき)』や、従三位参議であった葉室定嗣の『葉黄記(ようこうき)』等に詳細に記載に記載されている。 

 

(写真:ウィキペディアより引用 九条道家像、西園寺公経像)

 承久三年(1221)に承久の乱で敗れた後に後鳥羽法皇・土御門上皇・順徳上皇がそれぞれ配流された。土御門上皇は乱には中立、もしくは反対の立場であったため処罰の対象とはならなかったが、父後鳥羽法皇と異母弟の順徳上皇が遠流となった。土御門自身も責任を感じ京にいる事には忍びないとして、自ら申し出て土佐国に流された。後に京に近い阿波国に移り、幕府は守護に命じて宮殿を造設させるなど厚遇に扱っている。承久の乱後、幕府は皇位継承に介入し、四歳で践祚された仲恭天皇(懐成親王)を廃し、高倉天皇の第二皇子であり、後鳥羽院の兄である守貞親王を上皇に就けて、その皇子である十歳の茂仁王(後堀河天皇)を天皇に即位させた。鎌倉幕府は二度と天皇・朝廷との戦をなくすため後鳥羽院の血流を天皇に残すことはせず、むしろ廃絶に動く。廃帝となった仲恭天皇の母は、九条良経(父・九条兼実、子息・九条道家)の娘である立子で、鎌倉に東外した三寅(鎌倉幕府四台将軍藤原頼経)の父である九条道家が、外戚伯父としての立場であった。従って仲恭天皇と鎌倉幕府将軍・藤原頼経の従兄弟であり、その廃位は予想外であったようである。後鳥羽上皇の挙兵を非難していた比叡山延暦寺天台座主であり『愚管抄』の著者・慈円でさえ(九条兼実の弟)、幕府に仲恭天皇の復位を願う願文を収めている(『鎌倉遺文』3202号、貞応三年正月自演願文)。九条道家は承久の乱で後鳥羽院側に就いておらず討幕計画には加わっていなかったが、摂政を罷免された。そして仲恭天皇は母・立子の実家である摂政・九条道家(叔父)の邸宅に引き渡され、天福二年(1234)五月二十日に十七歳で崩御している。崩御するまで幽閉・蟄居のままであったという。

 

 北条泰時の執権時に九条道家は、岳父(室掄子の父)の西園寺公経や公経の伯母・北白河院(後堀川天皇の生母)の支持を得て幕府将軍頼経を背景に安貞二年の政変が起こった。『民経記』安貞元年(1227)閏九月二十三日・二十四日条によると、北白河院は、後高倉が没すると甥の西園寺公経や、その娘婿である九条道家と連携を図り、道家が近衛家実を失脚させて関白に就任した際には、それに賛同する意向を幕府に伝えている。しかし、北白河院も後堀河天皇の母であるため早急な譲位は無い者と考えていたに違いない。後堀河天皇の後見として自信と道家・公経に連携させる思いがあったのだろう。寛憙元年(1229)十一月二十三日、九条道家と室掄子との間に生まれた長女・竴子(じゅんし:藻壁門院)を後堀河天皇の女御として入内させている。そして、寛喜三年(1231)に秀仁(みつひと;四条天皇)親王が生まれ、朝廷内での最大の権力を掌握した。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後堀川天皇像、四条天皇像)

 安貞二年(1228)十二月にはいり、九条道家は後堀河天皇に早急に関白の近衛家実との交代を求めたが天皇は拒絶する。近衛家実は承久の乱時において関白であったが、後鳥羽上皇の挙兵に反対し、解任された。乱後、九条道家が失脚すると摂政及び太政大臣に就任し鎌倉幕府との協調路線を基に後堀川天皇に近く朝廷の施政を行った。しかしこの事で、後堀河天皇と道家の距離が遠のいていく。北白河院の使者が幕府将軍頼経の道家の関白推挙状を持ち帰った事で後堀川天皇はやむなく受け入れ、近衛家実を更迭し、道長を関白に再任させている。

 九条道家は、いずれ秀仁親王が皇位に就く事が確実であったにもかかわらず、外戚としての権力を強固にさせるために、貞永元年(1232)十月四日、後堀河天皇から秀仁親王(四条天皇)の譲位を行わせた。わずか二歳の天皇への譲位は、四条天皇の外祖父・九条道家が西園寺公経の了解をとり、強引に行われた。譲位に先立ち道家は、幕府に対し、相次いで二度派遣したが、二度目の使者は譲位がすでに決定したことを幕府に告知する物であった。道家は幕府に譲位の承諾なく強行した。幕府は当然「すこぶる不快の鉢」を示す。幕府執権・北条泰時をはじめとする幕府首脳、そして六波羅探題の北条重時は道家に対し強い警戒心を持つことになった事は言うまでもない。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像 順徳天皇像)

 この年に二十一歳になる後堀河天皇は将来的には治天の君としての院政を行うことが確実であったが、九条道家の天皇外祖父の地位を得るための強引な譲位であったために、皇位を去ることになった後堀川天皇も『民経記』貞永元年閏九月二十九日条、十月四日条に「御軟之色」があったと記されている。また『民経記』貞永元年閏九月二十八・二十九日条にて、道家を指示した北白河院が、道家の工作により後堀河天皇の譲位と道家外孫にあたる四条天皇の即位が決まった際には道家が外祖父になりたいために譲位が強行されたと道家を批判し、嘆いたという。

後堀河天皇が上皇に就き、院政を開始した翌年天福元年(1233)九月十八日に中宮竴子が皇子を死産した上、二十三歳で逝去した。そして、後堀河上皇も天福二年(1234)八月六日、後堀河上皇も宝算二十三歳で崩御する。京の洛中にて後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であると噂された。

 

 二歳で践祚され即位した四条天皇は仁治二年(1241)一月五日二十一歳で元服した。その年の十二月十三日に九条彦子を納れて女御とした。後堀河上皇が譲位後の二年間、院政を敷いていたが、崩御したため外祖父の九条道家とその舅である西園寺公経が事実上政務を行っていた。上皇の生前の威光により、天皇は宣陽門院(後白河法皇の娘で、天皇には曾祖父の異母妹)の猶子となり、さらに彼女の養女で後白河上皇の中宮でもあった近衛長子(鷹司院)を准母に迎えさせて母親代わりとしていた。また上皇の実姉であった利子内親王(式乾門院)も天皇の准母となっていた。

 仁治三年(1242)一月九日に不慮の事故にて宝算十二で崩御した。突然の僧正については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと御所の内裏渡殿の廊下に滑り十二歳であったため子供はおらず、承久の乱後擁立した後高倉・後堀河流の高騰は途絶えた。石を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。『百錬抄』によると転倒したのは崩御のわずか三日前の事とされる。 ―続く―