仁治二年(1241)十二月二十七日、武田光蓮(信光)が次男、信忠を義絶する。光蓮は、頼朝挙兵後の富士川の合戦で、頼朝と共に平家を討ち下した武田信義の四男で、その後に武田氏は、頼朝の粛清に会う。富士川の合戦での勝利は、信義の勲功であったが、頼朝にとっては源氏の棟梁は自身のみで、武田氏を粛清の上、臣下に就かせた。信光の長兄の一条忠頼が誅され、次兄の板垣兼光が隠岐に流罪されるが、三兄・有義と信光は追及を逃れた。文治二年(1186)には、父・信義も謀反の嫌疑をかけられ隠棲している。『吾妻鏡』では死没とされている。
武田信光は家督を継承して奥州合戦にも従軍し勲功を上げた。そして、梶原景時の変に乗じて三兄の有義を排斥し、名実ともに甲斐源氏の武田氏当主となっている。建暦年間の和田合戦においては、味方の武士が朝比奈義秀の勇猛な武威を怖れる中、信光は若宮大路の米町で出会い決戦を挑もうとした。それを見た子息・信忠が身を棄て両者の間に入ると、義秀は信忠が父に代わろうとした様子に感心し、急ぎ由比浦に立ち去ったという。承久の乱では、信光は小笠原長清と共に東山道軍の大将軍に任じられ大井戸の渡しで京方を破り東海道軍と合流して入京している。信忠はこれらの戦いにおいて、弟らを伴い先陣を切った。
『承久記』慈光寺本には、「美濃国大井戸付近まで来た所、小笠原長清が「娑婆世界は無情の所なり。如何有べき武田殿」。武田返事せられけるは、「や給え小笠原殿。本の儀ぞかし。鎌倉勝ば鎌倉に付きなんず。京方勝ば京方に付くなんず。弓箭取身の習いぞかし。小笠原殿。」とぞもうされける」。鎌倉方が勝つならば鎌倉方に付く。京方が勝つならば京方に味方する。弓矢の道に生きるぶしのしきたりだ。と答えている。しかし東海道軍の大将軍であった北条時房が武田・小笠原の出方を予測していたかのように大井戸・河合の渡意を成功したならば、「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六国を給わらん」と書状を送り、六カ国の守護職という現実的な恩賞を提示した。信光・長清は、即座に渡河を決行したと記されている。中世の武士には勝ちに乗じる事は、所領を守り抜く習であった。
『承久記』流布本には、この事は記載されておらず、後鳥羽院の京方から三人の使者が、京方に味方するよう訪れたが、二人を斬り、もう一人の使者にこの様子を伝え示すために京に戻したと記されている 『承久記』諸本には、それぞれ文学的要素も記された戦記物語であるために、真実かどうかは定かではないが、当時に置かれていた武田氏の情勢と動向が示されたのかもしれない。
仁治二年(1241)三月二十五日の海野幸氏と武田光蓮(信光)との上野国三原庄と信濃長倉保の境について相論を裁いた際。幸氏の訴えに道理があり、貞永式目に従い押領の分量限を加えて幸氏に引き渡すように伊豆前司(若槻)頼定・布施左衛門尉康高に命じた。この事で確執の余りの光蓮が遺恨に思い、一族や朋友らを語らって、泰時に対し宿意を告げようとする。この噂により再び詳細な審議が行われたが裁決に問題はなかった。そして翌月の四月十六日に武田光蓮は、先月の決定の趣旨を漏れ聞き、特に謝罪した。「もとより異心は有りませんが、噂がありましたので、今改めてご審議が行われたのでしょう。驚きかつ恐怖しております」。その上、子々孫々までも決して悪事を企てる事は無いと起請文を書き平基綱を通して泰時に献じている。泰時はすぐに起請文を召し置かれ、今日の評定の機会に清原満定に命じて評定衆に回覧させた。起請文派の内容は適当であり、人々も一様にこの事を行うよう群議は行われ、その場にいた衆を始め、一族の家督などに命じられたという。武田光蓮(信光)には頼朝以来の武田氏の粛清に会い、今、下記置いた起請文を回覧された恥辱は大きなものであったと考える。しかし、幕府に粛清されることを最も恐れた者であったのかもしれない。
仁治二年(1241)十二月二十七日、武田光蓮(信光)が次男、信忠を義絶したことに戻る。泰時は公私において大功のある子息で、どの様な過失があり義絶したかと聞くと光蓮は、
「数ヶ条の過失がある以上は、厳命によっても許す事は出来ません。」と断言した。
義絶された信忠は、泰時にその理由を確かめ自身の勲功を話した。
「その勲功は亭主(泰時)が御存じの所です。ならば父が信忠への哀憐の上を忘れても、上(泰時)はどうして取り成さずにいられましょうか」。
泰時は静かに事の始終を聞き、落涙して、そこで泰時は特に言葉を加えられた。
「忠信の申すところはいずれも道理があろう。泰時に免じて速やかに忠信を赦されるように」。
光蓮が泰時に答えた。
「お考えを重んじる事はもちろんですが、この一事に限っては、まげてお許しください」。
そして光蓮は信忠に対していった。
「お前の申す事は全て嘘ではない。武略については真に優れている。およそ父の慈愛いといい、子の至孝といい、今までも忘れることができない。ただし心がけの至らなさは極まっている。その上、親疎の思う所を憚(はばか)って義絶する異常は、許す根拠とはならない。よくよく自身の狭量を知るべきである」。
泰時は重ねて仰せになることなく、信忠は泣きながら座を起った。見る者はこれを憐れんだという。『吾妻鏡』では、泰時が信忠を救わんとしたが果たせなかったことが記載されている。
ここで、興味を引き付けるのが、信光が信忠を義絶した理由であるが、具体的な内容は記載されていない。『吾妻鏡』が鎌倉後期に北条氏により編纂されたため、北条氏、幕府に不都合な事は具体的に記載されていないことが多い。次男の忠信を義絶する形で服従したとされる説もある。信忠は悪三郎と称され、本来当時の悪とは武威に優れた強者を意味しており、和田合戦においても朝比奈義秀と父信光(光蓮)と対峙した際に割って入った事で、勇猛果敢な義秀が由比浦に立ち去ったとされ、義秀が信忠の武威を知っていたとも考えられる。泰時が、この強者の信忠を義絶させることで甲斐武田氏の弱体を狙ったのではないか。信光が、義絶して泰時に忠誠を誓ったのかは、定かではない。また、海野幸氏との相論に敗れ、光蓮が確執の余りの遺恨に思い、一族や朋友らを語らって、泰時に対し宿意を告げようとしたのは信忠だったのではないか。これも定かではないが、この事件に対して北条泰時の真意を窺い見ることが出来ないだろうかと考えた。しかし多くの推測だけが浮かぶのみで、信忠のその後の消息は不明で、信忠の弟・信正が甲斐武田氏の当主を継承し、信正の子の雅綱が甲斐源氏、信時が安芸源氏に別れ、建武の新政においては官軍に加わり鎌倉幕府討幕の一役を担った。 ―続く―