鎌倉散策 北条泰時伝 六十六、仁治年間の泰時の政策 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 延応二年(1240)二月二日、北条泰時は鎌倉で禁止される条々について、この日、審議を行い決定する。鎌倉中の保々(洛中の保に倣って鎌倉に設けられた行政区画)に分けて奉行人を置き、固く禁止せよとの文書が出された。盗人の事、旅人の事、辻捕の事(つじどり:女性を路上で捕らえること)、悪党の事、丁々辻々での売買の事、小道を狭くする事、辻々での盲法師(琵琶法師や相撲の事、押買(買主が売主の意志に反して、威力で財物等を買い取る)の事であった。鎌倉においても治安の悪化が見られ十一月には,鎌倉で辻々でも篝火をたく事を命じている。この年の二月七日に建暦年間以来の大地震が襲い、四月三日にも大地震が襲っている。由比浦の大鳥居の拝殿が潮に引かれて押し流され、着岸していた船十余艘が破損した。津波の被害であったらしい。そして、延応二年(1240)七月十六日に仁治元年と改元される。

  

 翌仁治二年(1241)三月二十五日、海野幸氏と武田光蓮(信光)との上野国三原庄と信濃長倉保の境について相論を裁く。幸氏の訴えに道理があり、貞永式目にしたがい押領の分量限を加えて幸氏に引き渡すよう伊豆前司(若槻)頼定・布施左衛門尉康高に命じた。この事で確執の余りの光蓮が遺恨に思い、一族や朋友らを語らって、泰時に対し宿意を告げようとする。この噂により再び詳細な審議が行われたが裁決に問題はなかった。泰時は「人の恨みを気にしてその理非を明らかにしないようなら、政道の真の意味はない。逆心を恐れて処置しなければ、きっとまた私心の謗りを招くであろう。去る健暦年中、和田左衛門尉義盛が謀叛を企てた時、『因人の平太胤長を赦されますように』と言って、一族が列参したが赦されなかった。結局胤長を面縛されたまま彼らの目の前を渡して人に預けられたところ、義盛は後日に蜂起したが、その場では決して胤長の身柄を抑える事は出来なかった。私心の無い事の先例はこの通りである。今後の指針とすべき事である」。と『吾妻鏡』に記されている。同年三月二十七日に同月暦仁元年に開始した鎌倉深沢大仏堂の上棟が行われた。

 

(写真:鎌倉 朝比奈切通)

 仁治二年四月五日、前年の十一月三十日に決められていた鎌倉、六浦間の道路が着工される。大土木工事であることから、泰時自らが現場に赴き直接大工事の指揮を執った。材木座に建設した和賀江島は波浪に対して船の着岸と荷下ろしの問題が難しく、波浪に対し東京湾の六浦の湊が安全だったために六浦道・朝比奈切通の開通が図られた。軍事的目的もあったと考えられるが、六浦道(むつらみち)の開通により陸奥国や北関東からの輸送を上総から六浦湊の海上路を使い、六浦道を通り鎌倉に入ることは、流通に対し時間的短縮と安全性を伴った。また当時から六浦付近は製塩が行われていたため、塩の安全路が必要だったことも建設の目的であったと考えられる。難工事であった事から、五月十四日には泰時がその場に挑み監督して、乗っていた馬で土石を運んだとされる。そのため見る者で仕事に励まない者はいなかったという。そしてこの六浦道は、正確な記録は残されていないが、五月中に完成されたと伝わる。

 同年十月には、恩賞地としての武蔵の開発の審議が行われた。また翌月の十一月二十五日には泰時は経時・実時を自邸に呼んだ上で、三浦泰村・後藤基綱ら有力御家人や二階堂行盛、太田康連等の実務官僚らを招集して経時を自身の後継者として指名している。そして実時にその補佐を依頼し、経時・実時に政務を訓戒を行った。

  

 仁治二年十月二十九日の未の刻に、若宮大路の下下馬橋辺りで三浦一族と小山の者との喧嘩があり、両方の縁者が駆け付けて人だかりになった。泰時はたいそう驚き、すぐに佐渡前司後藤基綱と平左衛門尉盛綱らを遣わして鎮める。事の起こりは三浦や寿村・三浦光邑・三浦家村以下の兄弟親類が下下馬橋の西脇の遊女のいる家で、酒宴・乱舞をしていた。また、結城朝広・小山長村・長沼時宗以下一門も同じ東脇で遊行していた。その時、結城朝弘の弟・朝村が遠笠懸(とおかさがけ:馬上から的に鏑矢を放ち射る騎射)のため由比浦に向かったところ門前に出てきた犬を射ようとする。しかし、その矢は誤って三浦の酒宴の場所の簾の中に入ってしまった。朝村が雑色に命じ矢を返すよう求めたが、三浦家村が返すことはできないと言い張ったため口論となったという。この領家は頼朝以来親しく交わり、日頃は互いに異心等なかったが、この日は確執が天魔がその性に入ったのではないかと言われた。翌三十日,三浦家村と結城朝村が幕府への出仕を止められた。昨日の喧嘩は主に彼らの武勇から起きたという。総じてこの事について譴責受をける者が多かった。さほど親密な者でなくとも、ただ縁故があると称して両方に分かれ、本人らと同じく確執したためである。泰時の孫・経時は使える者に命じて兵具を持たせ三浦泰村方に遣わせたが、経時の弟・時頼は双方の事情を問われるようなことはしなかった。泰時は三浦氏と小山氏の喧嘩につき経時と時頼に「それぞれは将来、将軍の御高見となる器である。諸御家人に対して、どうして好き嫌いできようか、経時の行動はたいそう軽率である。しばらくは私の前に来てはならない,時頼が事情を推察した事は、まことに重要である。追って恩賞があろう」。と戒め、褒めた。次に三浦泰村・結城朝広・小山長村を招いて、「お互いに一族の棟梁として、当然身を全うして不慮の凶事を防ぐべきところ、私に武威を誇って自滅を好むのは、愚かな事であろう。以後は特に慎むように」。といい出仕を止めた。三者いずれも首を垂れ弁解できなかったという」。この事からも喧嘩両成敗と公平・公正な立場により対処した事が、泰時のゆるぎない道理を基にする信念で行われたことが窺い取れる。

 

(写真:鎌倉 下下馬鳥居、ウィキペディア引用 笠懸)

 『吾妻鏡』仁治二年十二月一日条に「酒宴を準備する際、あるいは意匠を凝らした菓子を用い、あるいは衡重ね(ついがさね:隅切りの方形の縁付盤に隅切りの脚を付けた配膳遇)や外居(ほかい:食物等の運搬用のまげ物の容器)箱に絵を描く事について御所中の他は、今後一切のこのような過分なやり方を禁止すると諸家に命じられた。すべて贅沢を禁止することが先日定められたが、手厚く準備する際にともすれば違反する事などあるため今日重ねて命じられたという」。泰時は三浦氏と小山氏の喧嘩において、御家人の在り様と対立の危惧を思い、華美で贅沢な行いを禁じた。ここには大掛かりな酒宴も禁じたのかもしれない。

『吾妻鏡』同年十二月五日、「北条武衛(時頼)が前武州(北条泰時)から一村を拝領された。これは御所中の宿直の祇候を忠実に勤められているためという。およそ泰時は病を得た時を除いて、毎日六ヵ日夜の当番を壮年より今に渡るまで忠実に勤められていた。また左親衛(北条経時)が譴責されたことについて、今日、許されている。前馬権守(北条正村)・若狭前司(三浦泰村)等が特に取り成されたという。駿河式部大夫(三浦)家村・上野十郎(小山)朝村も同じく出仕を赦されたという」。泰時が孫の時頼に一村を与えた事は、日頃の恪勤に対する褒美とされるが、先月の三浦氏と小山氏の喧嘩に対して適切な行動をとった事の褒美であることを隠すことができない。泰時は兄の経時よりも時頼を次期執権としての適格性を見ていたとも考えるが、当時、時頼は十二歳で、三歳違いの兄・経時と比較すると次男の立場と年齢的にも、積極的な行動はとれなかったとも考えられる。また、後の宝治合戦等の三浦氏の対応を見ると積極的な行動が取れない性格であったとも考える。北条泰時は、五十八歳に達し、その後も北条得宗家の安泰のため最後の難問に裁決を下すことに遂力する。 ―続く―