暦仁二年(1239)二月七日に延応元年と改元される。北条泰時は御家人の私領の売り買いを禁じ、恩領については質入れまで禁じ、三月には御家人の奢侈(しゃし:身分不相応な暮らしをする事)を禁じた。御家人の生活の困窮の中、新たな恩賞に用いる土地などの開発を行い、公共事業も率先して行われ、そして御家人には倹約令を示した。商業活動が盛んになる中、東国武士としての頼朝以来の率直・正直・勤勉・勇敢の教えと、幕府と御家人の根底となる主従関係において御恩と奉公を子孫に教え伝えなければならなかった。北条重時が嫡子長時に対し家訓を残しているのもこの現れである。
泰時は永年の心労と老齢により五十日もの間、病床に伏しており、叔父である時房が泰時の病床に就いて語った事が『吾妻鏡』記されている。
『吾妻鏡』延応元年(1239)四月二十五日条、「前武州(北条泰時)が急に御病気になられ、戌の刻(午後八時頃)以後に、特にお苦しみという。人々が群参し、織部正(おりべのかみ:伊賀)光重が将軍(藤原頼経)の御使者として参った。その時匠作(北条時房)の御邸宅(泰時の邸宅の向かい)では、ちょうど酒宴乱舞の最中であった。泰時が御病気と告げてきた者がいたが、時房は決して宴を中止されず、また使者も進められなかった。宿老の祇候人らが諫めると時房が言った「私のような者が遊び楽しむのは、武州(泰時)が生きておられる間の事である。その病気は一時の事であろうが、もし大事に至ったならば、何の情けを頼りとして生きて行けばよいのであろうか。一生、隠遁して、決して饗宴を好むこともないであろう。まずは最後の機会であると考え、この宴の座を立たないのである」。(時房に)諫言した者は、かえって感動の涙を流したという。」。老齢になった時房と泰時の共に戦い、共に政務を執行した両者の尊う信頼関係の表れであった。同年六月十二日には回復する。
『吾妻鏡』延応元年五月一日には、「人身売買について、今後は禁止された。これは、飢饉の頃に窮乏した者の妻子や所従を売却したり、その身を富裕の家に寄せて生活の手段とした。そこで、撫民のためにその処置をしていなかったところ、近年甲乙人(一般庶民、雜人)がそれぞれ訴訟し、御採決に手数が掛かっていたためである。」。寛喜の大飢饉において、人々が生きるために人身売買を許したが、再び禁じている。
延応元年年九月、北条泰時は式目制定後、七年を経過し、山僧・富商を地頭代とすることを禁じた。彼らは公用を怠って私腹を肥やすものであり、御恩と奉仕による主従関係を構成する武士・御家人の美徳に相反するものであり、また、地頭は御家人が職すべき物として、御家人に対する職の独占的な保護要素も含まれていると考えられる。
(写真:ウィキペディアより引用 九条頼経像、九条道家像)
延応元年十一月二十一日、将軍・藤原頼経と大宮殿(藤原親能の娘)との間に男子が生まれた。後の五代将軍となる頼嗣である。男子が生まれた事により幕府内では大いに喜び、出産に従事した者に対し多くの褒美が与えられた。それに反するように翌月の十二月五日、頼朝以来の重臣である三浦義村が急死する。大中風(だいちゅうぶ:重い脳卒中)であり、多くの人々が弔問のため義時邸に群集した。そして年が変わり延応二年(1240)一月二十四日の明け方に、北条時房が逝去し、享年六十六歳であった。昨日の辰の刻(午前八時頃)より言葉がはっきりしなくなり、大中風によるものかと診られ、今日の午の刻(午後零時ころ)に死去したと伝えられたが、実際に亡くなったのは今朝の丑の刻(午前二時頃)という。泰時は二人の子息に先立たれ、最も信頼関係にあった伯父時房を亡くした事に悲観しないでいられなかっただろう。しかし泰時も老齢に達し、残された時間を得宗家の安泰のために孫の時氏と時頼の育成と、東国の安泰のための幕府の政務に遂力していく。時房の子息は長子・時盛(佐助流祖)と四男朝直(大仏流祖)に別れ、泰時は六波羅探題に就いていた時盛を免職し、その後に要職には就かせていない。母が不詳であったため、足立遠元の娘を母で、泰時の娘を継室とする朝直に武蔵守を譲るなど厚遇を与えて、泰時を義父とする朝直に家督競争に勝利させたと見られる。時盛を排除する事で時房流を分裂させ、泰時流(得宗家)の安定を図ったとする見解もある。
同時代の公卿・平経高の日記『平戸記』には、三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊だとする記述があり、その後の泰時に起こる問題に対し怨霊の言葉が後に続く事になった。
同延応二年正月月二十七日、将軍頼経は今年も上洛をしようと思われていたが彗星が毎晩出現していたために、窮民を慰められるのが災を祓う上策であると決定されて延期された。前武州は(北条泰時)は匠作(北条時房)の軽服(親族の死による喪に入ること)により御教書が出されることが出来ず、ひとまず後藤基綱と行然(二階堂行盛)らが頼経の仰せを給わって奉書を献じた。関東申次の西園寺公経が逝去すると頼経の父である九条道家が関東申次となる。四条天皇擁立に対し幕府の承認を得ず、事後報告に終わった事など、幕府はこれ以上の家長の権力集中に反感を示した。また申次により、幕政介入も見られ、泰時の後を継いだ北条経時と将軍・頼経の関係も悪化していくことになる。寛元二年(1244)に、寛元三年(1245)二月にも再度上洛を計画するが、直前の十二月に北条経時・時頼兄弟の屋敷から出火があり、政所も焼失したため延期された。幕府は、頼経の上洛により御家人の負担が相当なものとなり、上洛に従った御家人達が頼経の働きかけにより官位を授かり、側近たちのより強固なつながりとなることを恐れた。また頼経が権大納言から大納言職に叙任されたならば、北条氏といえども頼経を抑え込むことが出来なかったと考える。泰時の異母弟朝時の嫡男・光時を筆頭とする名越流北条氏等が反得宗勢力として将軍頼経に接近し幕府内における権力基盤を徐々に強めていたことも脅威であった。
翌年の寛元三年七月には、将軍職を六歳になる子息・頼嗣に譲る。そして頼経は出家をして、大殿として鎌倉に居続けた。しかし、翌年の寛元四年五月には、宮騒動が起こる。名越流北条光時等の得宗家反対勢力により、大殿・頼経を中心に立てる執権排斥の動きを察知された。執権・経時の逝去によりに執権に就いた時頼により、光時等が粛正される。そして、北条家による傀儡将軍であった頼経も京に送還され六波羅の若松殿に移された。また、九条道家も関東申次を罷免され、籠居させられている。頼経は四年後の康元元年(1256)八月十一日、赤痢のため京で薨去し、三十九歳であった。子息・頼嗣も翌年に逝去している。摂関将軍が絶え、次に宮将軍へと続いてゆく。中流公卿の吉田経俊の日記『経俊卿記』には、将軍の死に際し、「将軍として長年関東に住んだが、上洛後は人望も失い、遂には早世した。哀しむべし、哀しむべし」と記している。 ―続く―