鎌倉散策 北条泰時伝 六十四、暦仁・延応年間の泰時の政策 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 嘉禎四年(1238)十月、藤原(九条)頼経が上洛を終え鎌倉に帰着する。頼経の上洛において、公家や寺社勢力の権力の拡大を抑制しつつも、この時期には京都を中心に銭という怪物・貨幣による商業・経済活動が急速に拡大進展した。ここで日本での貨幣経済の進展について見てみる。

 

 日本において貨幣は皇朝十二銭が奈良時代に発行されたが、年々銅の含有率も低くなり信用度が低下し、流通において普及せず、鋳造を中止した。その後の古代から中世にかけて物々交換が主流で、朝廷が估価法(こかほう)として市場の公定価格及び物品の換算率を定めた法律を施行している。これに基づく価格を估価と呼び租税の物納や日本国外との貿易の価格および交換機順として用いられた。物々交換が主体をなし、当国においては絹、西国において米が貨幣の様に基準とされる。  

延喜十四年(914)地方国衙の估価は絹一疋=稲五十束、錦一屯=稲五束とされていた。平清盛により宋貿易により得た宋銭を主材源として国内でも流通させるようにしたが、後白河天皇の宋銭の使用の禁止が提議された事により、治承三年(1179)の政変の原因のひとつとなったとされる。国衙に納める徴税としては、この絹、米が主流をなし、その値打ちが価格として連動していた。簡便性に優れた宋銭の普及により絹の値打ちが下がり、それは荘園領主にとっては大きな打撃を生むことになり、それが反対の大きな理由であった。平家滅亡後の文治三年(1187)に摂政となった九条兼実が源範頼の意見とし宋銭の流通停止が発令されるが、建久三年(1192)には宋銭の估価を定めた「銭直法」が制定されるも根強い反対意見が出され、建久四年(1193)には改めて「宋銭停止令」が出されている。

 

 鎌倉時代に入っても当初、経済活動は物々交換であり、估価法を用いられたが、交換率の改定は建久六年(1195)、建長元年(1249)、同二年(1250)、同五年(1253)、弘安五年(1282)、元徳二年(1330)出され、鎌倉幕府も建久五年(1194)估価法に呼応して価格の公定を行っている。しかし絹の価格低下は止まらず、宋銭が朝廷や幕府も実際に利便性が高いため嘉禄二年(1226)に鎌倉幕府が宋銭の使用を認め、その四年後に朝廷も宋銭使用を認めた。十三世紀に入ると絹・布の持つ貨幣価値を銭貨が駆逐し、次第に年貢も銭貨で納められるようにもなった。その流通過程において商工業者が担い、荘園などの管理人や百姓も上納する年貢が簡便になり、多様性のある銭貨を使用するようになる。しかし商工業者が生産と流通に入ることで、利益の獲得のため大量生産も行われ、また利潤を得るため粗悪品が横行する。荘園の管理人や農夫はそれを倣い、絹の価値が低下していくことになった。北条泰時の執権の時代が貨幣経済への転換点となった。

 泰時が寺社勢力の武力を抑圧している中、僧侶達は新たに銭による経済活動に参画し、富裕な商工業者と共に金貸しという分野で幕府に対し脅威の存在となりつつあった。富が集まる畿内では、群盗・盗賊たちが徘徊し、貴族・寺社そして富裕な商工業者を狙い金品の窃盗が増加していた。御家人達は、遺領相続において、所領が減少して行き、大番役等の公用に掛かる経費の捻出が困難となっており、武士においても日常生活が華美になりつつあったのもこの時期だと考えられる。困窮した御家人が生まれ、幕府に従わない武士や農民も増加して行く。守護に命じて、治安を安定させるために京の辻々に篝屋を置いたのは、あくまでも対処療法的な対策であった。その対策を補うために、京を離れる前に畿内・西国の守護に命じ犯罪者を捕らえる事を命じている。

  

 嘉禎四年十一月二十三日に暦仁元年と改元された。十二月に危篤に臨まずして御家人の所領を妻妾に譲る事を禁じた。御家人が老齢にならず、しかも無病息災でありながら出家をし、あるいわ京都に移り住み、御家人としての義務を十分に果たさずに所領の管理を知行する者も、また所領を妻妾に譲ったように見せかける者も現れた。泰時はこのような御家人に対し所領を没収する厳命を出している。

 『吾妻鏡』延応元年(1239)正月十一日条、「今日陸奥国の郡郷に所当について審議が行われたれた。これは准布(じゅんぷ:銭に准じて上納される布)の例により、沙汰人・百姓らが勝手に本来の年貢の勤めを忘れ、銭貨を好み、納められた年貢が年を追って不法なものとなっているとの風聞があったためである。「白川関以東は、下向の者が(銭貨を)所持するのは禁止しない。また絹布が粗悪であるのは、全くけしからん。元のような物を収めるように。」と定められ、匠作(北条時房)の奉書で前武州(北条泰時)に伝えられた。」と記され、陸奥国に年貢の代替えとして銭を用いる事を禁じた。またこの処置は、陸奥国での銭の流布を禁ずる政策でもあったと考える。

 暦仁二年二月七日延応元年と改元される。

延応元年(1239)二月二十二日、後鳥羽上皇が、配流先の隠岐の配所にて崩御した。宝算(ほうさん:天皇の年齢)六十であった。

 同年五月二十六日、北条政子の追善のために政子の法華堂裏に温屋(湯殿)を造る。御家人から薪等の雜掌人(ざっしょうにん:担当者)を結番して毎月六日斎日に僧徒を入浴させるよう決定され、政子と幕府の御恩を忘れさせない事から費用を徴収した物とされる。

 

(写真:ウィキペディアより引用 北条政子像、後鳥羽天皇像)

 『吾妻鏡』五月二十六日条にさだめた置文(死後の事に関して、自分の意思を表明しておく文書)

「南新法華堂で行われる六斎日の湯の薪代銭の分配について 右の期限の前に、頭人の下に納入するように、それぞれに命じられるところである。(頭人は)届き次第に受け取り、寺内に納めて返抄(へんしょう:領収書)をとって提出するように。もし定められた月の十日を過ぎても、支払われずに遅れる事があれば、頭人が処置して拳銭(こせん:銭貨によって行われた利息付貸付)をとってまず寺やに納めた後、納入を怠った人々から(遅れた)日数の長短にかかわらず一倍(現在の二倍)を徴収するように。その(納入を怠った)人がもし一倍を支払わず、さらに難渋するならば、頭人がきっと事情を訴えるように。そのときは所領を没収し、傍輩が怠ることのないよう改めとする。ただし頭人がもし私情を重んじ御公事の費用を軽んじて、その納入をおこたった罪を隠して訴えず、寺家が訴訟に及んだ場合は、納入をおこたった人ではなく、頭人の所領を没収する。さらにまたこの諸課に限っては、この様に定め置かれた後、互いの所領の大小を論じて不満を訴える者があれば、これもまたその処罰を行う。一人がもし難渋の言葉を出せば、傍輩も皆これを倣うためであり、その初めての(不満を)口にしたものを厳しく戒めるべきである。ましてや頭人の身でありながら不法を行う者については、そのままにしておくことはできない。総じて事の起こりを言うと、関東に祇候する人々が身分の高い者も低い者も安じてそれぞれ一郷・一村を知行しているのは、ただ亡き二品禅定(政子)の御恩徳の故である。心あるものは、誰が恩の誠を知らないであろうか。そうしたところ今、この最も少ない負担について、あるいは忘れていたと弁明し、あるいは過分(の負担)であるといい、(納入を)遅らせたり、拒んだりしている。聖霊のために踈略をするのは、ただ木石のような者である。木石のような者は、恩を施しても何の甲斐もないであろう。そこで不法の人々については、所領を改易するのに何のためらいもない。それぞれ心得るように詳しく伝えよ。(泰時の)仰せはこの通りである。まことに恐れ多い事である。つまりは、この詳しい仰せを承知しながらすこしであっても怠ったならば、きっと恨みに思われるであろう。速やかにこの御下知状を書き写し、それぞれ座右に置いて常に忘れることが無いように。始まりがあっって終わりがない事は、古人の誡めるところである。今日は注意したとしても、後年になって次第に心を緩くするものであろう。必ずその終わりを慎み、永遠に(泰時が)後々までも思い煩われる事の内容、よくよく考えるように。普通の事と同じにしてはならない。そこでこの通り伝える。 延応元年五月二十六日 左衛門尉(平)盛綱 」と記されており、泰時の厳しい文書は、幕府と御家人の御恩と奉公の主従関係の再確認と幕府御家人の在り方、そして幕府と御家人の結束を知らしめたと考える。

 

 同年九月に泰時は正四位下を叙任される。同月、泰時は式目制定後、七年を経過し、山僧・富商を地頭代とすることを禁じた。彼らは公用を怠って私腹を肥やすものであり、御恩と奉仕による主従関係を構成する武士・御家人の美徳に相反するものであった。また、地頭は御家人が職すべき物として、御家人に対する職の独占的な保護要素も含まれていると考えられる。この年夏に泰時は永年の心労と老齢により五十日もの間、病床に伏している。 ―続くー