鎌倉散策 北条泰時伝 六十二、天福・文暦の政策 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 天福二年(1234)三月五日、北条泰時の孫・経時が十一歳で元服した加冠は将軍・藤原頼経が行い、偏諱が行われて経時と名乗った。

 同年五月には西国御家人の国司・領家への侵犯を禁ずる追加法が出している。貞永元年に(1232)に出された「御成敗式目」により、幕府は国司・領家を温存して社会的秩序を守ろうとした。これに対し、国司・領家の支配に対する不干渉を示す結果、地頭の任命権を持つ幕府は地頭の非法について制肘しなければならなかった。幕府は本所・領家の成敗に干渉しないのは、御家人の狼唳(ろうれい:秩序の無いこと、狼藉)を断つためであり、本所・領家に対し狼藉を行った御家人は咎めを蒙るのもやむを得ないとする。そして、幕府が守護・地頭の任免権を有するために地頭が年貢を納めなかった時や国司・領家の命に背く事を禁じて、守護・地頭が召喚に応じない祭の処置を定めた。特に西国の新恩地を与えられた御家人にこれ等の事件が多く見られたと考える。しかし、文暦二年年(1235)七月には、領家側の預所(領家が代官を置く所領)が非法であった場合は、それを免職するように朝廷に申し入れていれた。領家側が実際にそのような事が行われたか定かではないが、泰時の御家人を擁護しながら、道理と公平が正しく表した内容だと考えられる。

 

(写真:鎌倉妙本寺)

 天福二年(1234)七月には、家司等に命じて起請門を提出させた。これは奉行することについて、親疎や貴賤にかかわらず、それぞれ正しく沙汰する事であり、その人数は前山城守藤原秀朝、前山城守中原盛長、散位大江以康、散位三善(町野)康持、民部大丞康連、中務丞大江敏行、弾正忠大江以基、大膳進大江盛行、左衛門尉惟宗重通、兵庫允三善倫忠、藤原頼俊、沙弥行忍、惟宗行通、三善康政の十七名であった。

 同月二十七日、寛喜二年(1230)年十二月に四代将軍頼経十三歳と、二代将軍・頼家の娘竹御所二十九歳と結婚して、その四年後懐妊した。頼朝の血を引き継ぐ竹御所は幕府の権威の象徴でもあり、御家人たちの尊敬も集め、後継者誕生の期待を周囲に抱かせた。

 

(写真:鎌倉 妙法寺竹御所の墓碑 妙本寺寺伝によると媄子(よしこ)と伝わる)

  『吾妻鏡』文暦元年(天福二年)七月二十七日条に、竹御所が難産の末に出産したが子供は死んで生まれ、竹御所はその日のうちに苦しんで亡くなったと記されている。夫婦仲は円満だったと伝えられ、享年三十三歳であった。藤原定家の日記『明月記』には、竹御所の訃報が京にもたらされ、鎌倉御家人の武士達は源氏棟梁の血筋が断絶した事に激しく動揺し、こぞって鎌倉に下向したと記している。定家は「平家の遺児らをことごとく葬った事に対する報いであろう」とも記している。『吾妻鏡』の翌年の嘉禎二年年七月二十七日条に、「竹御所の姫君が相州(北条時房)の御邸宅で、御除服(喪が明ける事)の義を行われた」と記された。

 同年八月、北条泰時の家令であった尾藤左近入道然(景綱)病気のため職を辞し、平盛綱を家令に任じている。天福二年十一月五日に文暦元年と改元された。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽院像、順徳院像)

 

(写真:ウィキペディアより引用 四条院像、後嵯峨院像)

 文暦二年(1235)五月には、石清水八幡領の山城国薪庄と興福寺領同国大住庄との用水相論が起きる。

 『明月記』文暦二年五月十四日条によると、摂政九条道家が後鳥羽院と順徳天皇の環境を提案するが、泰時は「家人等一同にしかるべかざる由を申す」と言って、これを拒絶した。承久の乱後、乱の首謀者である順徳院の第三皇子であった仲恭天皇を廃し、高倉天皇の第二皇子であった守貞親王を後高倉院とし、その第三皇子の茂仁王・後堀川天皇を即位させた。九条道家により貞永元年(1232)十月四日に院政を行うべく、道家の娘の竴子(しゅんし)とに生まれた秀仁(みつひと)親王・二歳を譲位に伴い践祚させた。しかし、仁治三年に(1242)一月九日に不慮の事故で、わずか十二歳で崩御する事になる。四条天皇の系統に擁立する親王がいなかったため、九条道家や西園寺公経の外戚である順徳上皇の皇子・忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとするが、北条泰時と六波羅探題・北条重時が順徳院の皇子の擁立には反対の立場を示した。そして、承久の乱に中立的立場をとった土御門上皇の皇子邦仁王の擁立を試みる。擁立には鶴岡八幡宮の御託宣があったとし、後嵯峨天皇を擁立させた。この時には、まだ佐渡に配流されていた順徳院も在命で、邦仁王が即位する事で院の帰京もありえ、順徳院の院制の危険性もあった。二度目の天皇即位に関しての介入であったが、泰時は再び乱が勃発する要素を取り退けるために、承久の乱での首謀者に対しては一貫した賢明な政策を示したことになる。

 

(写真:鎌明王院院)

 同年六月二十九日に鎌倉の安泰を願い、政所の鬼門とされる北東の方違、十二所(鎌倉東部)の大慈時の北に将軍藤原頼経が願主となって堂内に五大明王を安置した五大堂の明王院を建立している。この日、定豪を導師として供養が行われ、将軍頼経以下多くの御家人が参列した。

 閏六月、佐々木氏と延暦寺の日吉神社の紛争起きる。

 同年七月に鎌倉で念仏禁止を行った。幕府は寺社・貴族への不干渉を建前としていたため、治安維持の立場から兵仗禁止を求めることくらいしかできなかったが、鎌倉での寺社において幕府の祈願的な性格を有し、幕府の経済的な寄進と制約により維持されていた。泰時が明恵上人に傾倒する中、既成教団の堕落が進み、革新教団の台頭が見られた。それは、法然や親鸞によるものであり、彼らは明恵と異なり、僧と俗との差を否定し、戒律を否定することによって、仏教を一般的に開放する方向をとった。本来「南無阿弥陀仏」の名号の称得る者に浄土に往生せしめると本願に近い阿弥陀仏への帰依を表明する事で功徳を得られる。しかし親鸞の説教の解釈を誤り、『親鸞書状』の「身にもすまじき事も許し、口にも言うまじきことも許し、心にも念まじきことも許す」という「本願ぼこり」の徒が現れ、魚長を食し、女人を招き、徒党を組み。酒宴を好む念仏者たちの行動は、反倫理的的・反社会的行動でもあった。それらの行動に対し為政者である泰時の仏教感においては、到底許容できるものではなく、仏教者としてあるまじき行動として禁止せざるを得なかった。

 

(写真:鎌倉 常楽寺)

 文暦二年(1235)七月十八日に故御台所(竹御所)の一周忌の御仏事が新阿弥陀堂で曼荼羅供が行われ、二十七日条には、竹御所の姫君が相州(北条時房)の御邸で御除服の義(喪が明けること)が行われた。

文暦二年九月十九日、嘉禎元年と改暦される。 ―続く―