鎌倉散策 北条泰時伝 六十一、寺社勢力への政策  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 石清水八幡領の山城国薪庄と興福寺領同国大住庄との用水相論が起こった同年に、佐々木氏と日吉社・比叡山(延暦寺)との間で争いが起きた。この両者は頼朝の時代の建久二年(1191)に近江国の守護を奉っていた佐々木定綱と延暦寺との間で、佐々木荘での千僧供料(多くの僧を集め法要を行う千僧供養の料)の貢納を巡り争いが生じる。延暦寺は衆徒を定綱邸に乱入させ、これに対し次男・定重が宮仕法師を斬り、神鏡を破損させてしまった。延暦寺の強訴を受けて定綱は薩摩に流され、定重は唐崎で梟首され、長子・広綱は隠岐国、三子・定高は土佐と配流となった。建久四年三月に恩赦により召喚され、同年十月に鎌倉に帰参する。頼朝は非常に喜び、定綱を近江国守護に復した。延暦寺側は何の咎めも受けておらず、頼朝に至ってもこの強訴の対応は出来なかった。挙兵以来の勲功者の佐々木定綱・定重親子を救う事が出来ず、この佐々木氏と延暦寺は因縁を持つ関係であったといえる。

 

 嘉禎元年(1235)閏六月に大見守護佐々木信綱が国役を高島郡の日吉神社の神人に課し、比叡山の僧・観厳がこれを拒んだことから、比叡山・日吉社と佐々木氏との間に紛争が起こる。日吉社は延暦寺の守護社で、両者の関係は、春日社と興福寺の関係と同様であった。佐々木信綱が鎌倉に赴いている留守に、信綱の子・高信が勢田橋の行事として諸役を催促したところ、日吉神社の神人がこれを拒み、高信の使者と喧嘩となった。そのため高信の代官は日吉社の宮司法師を殺害する。延暦寺・日吉社の僧兵・神人は、高信を訴え出て、日吉社の神輿を奉じて入洛し、強訴した。六波羅の兵がこれを防いだので双方に死傷者が出たため、幕府は朝廷に奏上して高信、及び神輿を防いだ時に先陣を務めた二人の武士を流罪に処する代わりに、叡山衆徒の張本を処罰することを申し入れた。そして衆徒の張本人を鎌倉に下向させるよう命じる。幕府の強硬な態度を恐れた叡山では張本人を赦されたいと請願したが、幕府はこれを拒み、「高信等を配流した以上、叡山の張本を処罰し、後のための戒めとする必要がある」として重ねて張本の出頭を即す。六波羅からも使いを坂本に遣わして、張本の利玄を尋問しようとしたところ、叡山側はこれを拒み、武士が敢えて攻め来るときは、根本中堂に放火したうえ、供に滅すべしと宣告した。やがて張本を赦すという綸旨が出たが、張本人たちは山上にいたたまれず、地方に逃れたらし、翌嘉禎三年には彼らを逮捕するように勅命が幕府及び諸国司に出された。

 

(写真:比叡山延暦寺)

 『吾妻鏡』嘉禎二年七月十七日条によると、「佐々木近江次郎左衛門尉高信と日吉社の神人の争いによって神輿を担ぎだした首謀者を召し出されるよう、武州(北条泰時)が頻りに申されていた。山徒が拒否して蜂起したので、召されるべきではないとの事について、今日、重ねてご審議が行われ、座主宮(尊性法親王)に申されたという。「高信や神輿を防ぎとめようとした有志らは、宗徒の訴訟によって流刑に処せられました。ここで追って首謀者を召されるのは、もっぱら後世を戒めるためです。そこで両門以下の交名を書きだしたところ、俄かに無道の衆会に及びました(そこで)たとえ堂社に閉籠しても自業自得であるとの評議を行いました。情けがあれば(三僧らに)諷諫(ふうかん:(遠回しに言って諫めること)を加えられますように。」と仰せ遣わされた。また「承久の乱で京方となった者は、諸社の別当・祠官に至るまで、相応の罪科をそれぞれ免れなかった。しかし山僧の首謀者は傍輩(の罪科)を超えたたとしても遂に赦した者である。寛大な処置を施したものである。今度の首謀者についてはまずもってその罪を逃れ難い。」と御教書に記されたという。」。

 

 嘉禎二年九月九日条、「京都の使者が(鎌倉に)到着した。これは去年の七月二十三日、日吉社の神輿が京に下った時に防ぎ留め奉郎とした武士の右衛門尉(足立)遠政と、喧嘩の首謀者である近江次郎左衛門尉高信らについては、宣下のうえで関東の御計らいとして、山門の不満などを宥めるため流罪に処せられていた。山徒の首謀者については、またその身柄を召し出して後世の戒めとされたいと奏聞されたので、(日吉)七社の神輿を作り返した後に、その首謀者を召しさせた。すると先月八日、新造の神輿を中堂に振り上げ奉り、訴え申したので、同二十八日に勅免の綸旨が下されたと報告されたという。」。強訴を行いえば、要求が通り、首謀者は許されるのである。

 石清水八幡領の山城国薪庄と興福寺領同国大住庄との用水相論で、朝廷が約束した石清水別当宗清の解任の約束は果たされず、同年七月には興福寺の僧兵が再び蜂起した結末が『吾妻鏡』に記されている。

 同年十月五日条、「評議が行われ、南都の騒動を鎮めさせるために暫く大和国に守護人を置き、衆徒が知行する庄園を没収し、ことごとく地頭を補任された。また畿内近国の御家人等を動員して、南都への道路を塞ぎ、人々の出入りを止めるよう評議があり、印東八郎佐原七朗(光兼)以下、特に武勇に優れ力のある人々を派遣された。「衆徒がもしそれで敵対するならば、けっして赦すことなく全て討ち滅ぼすように。」という。またそれぞれ死を覚悟するよう、関東の武士には直接よくよく命じられ、京幾(の武士)については、その旨を六波羅に命じられた。また南都の所領の所在についてすべては御存じなかったところ武蔵得業隆円が密かにその注文を佐渡守(後藤)基綱が関東に送り進めたので地頭が新たに補任されたという。」。

同月六日条、「大和国守護職などの御下し文を六波羅に遣わされたという。」。

 

(写真:奈良春日大社)

 『吾妻鏡』嘉禎二年十一月一日条、「六波羅の飛脚が(鎌倉に)到着した。(南都の)宗徒は先月十七日に城郭を破棄し退散した。これは所領に地頭が補任され、関を塞がれたので、兵糧の手立てを失い、人数を集める事が出来なかったためという。」。

 同月十三日条、「六波羅の飛脚が(鎌倉に)到着した。南都(の宗徒)の蜂起はすでに収まり、去る二日からの仏内科は寺に帰って門を開き、仏事を行っているという。」。

 同月十四日条、「匠作(北条時房)・武州(北条泰時)が評定所に就かれた。評定集も参り、南都の事について審議が行われた。衆徒が静まったので、大和国の守護・地頭を停止し、元の通り寺家に付けられるという。」。

 以前の南都・北嶺の宗徒・僧兵対策は、強訴により朝廷が妥協と所領の給授による懐柔策だけで、僧兵に対する処罰は行われなかった。まして僧兵を防いだ武士が僧兵を殺傷した故に処罰をされるという事を繰り返していただけである。寺社同士の相論に対しては、一方の要求を受け入れては、他方を憤激させ、またその要求を受け入れるという愚策を繰り返した。この二つの事件は幕府の強硬な威令により屈服したが、後の世も、少なくなるが寺社勢力の相論は続く。寺社も幕府の関与、特に守護・地頭の設置を強く脅威を持ち、寺領内での干渉を防ぐために、泰時が示した『御成敗式目』を意識した寺社法を施行させている。

 

(写真:奈良興福寺)

 北条泰時は承久の乱後、朝廷の実質的機能を失った後を受けて、頼朝以来の懸案であった寺社勢力の対応に幕威を示すことにより成功した。道理を基に御家人と寺院の言い分を聞き入れ、評議し裁断をおこなう。相論・争乱の張本に対し御家人、僧兵に問わず罪を免れないという筋の通った裁断は、泰時の「道理」が一貫していたことによるものであった。

 暦仁元年(1238)に幕府は承久の乱の張本藤原秀康の子息を匿い、山辺庄を掠領した東大寺別院別当頼暁を辞めさせ、後任に隆円とした。幕府の域のかかった層を要職に就かせることで幕府は奈良の所持院の動静を監視し、結束を乱すことを画策している。 ―続くー