文暦元年(1234)一月二十七日、鎌倉中の僧徒が兵仗(武具)を所持する事を禁止した。『御成敗式目』第二条、「可修造寺塔勤行仏事事」において僧侶の勤めを行う事と記され、ほしいままに寺用勝手に使用したり、その役を勤めざるの輩においては、早く彼の職を罷免せしむべし、としている。平安末期から僧侶・神人が宗教的権威を振るい、武装蜂起して強訴を行うなどした。その暴力的な行動に対して朝廷は対応に苦しんだ。特に南都の興福寺と春日社、北嶺の延暦寺と日吉社が最も強力であり、この時期には石清水社も強化してきた。
北条泰時の時代の施策の一編に寺院に対する統制が挙げられる。本来、幕府は寺社・貴族への不干渉を表してきたが、治安維持のために寺社に対し兵仗禁止を求めた。特に鎌倉の寺院は幕府の祈願次的な性格を有し、寺社別当・神主・供僧も任命において幕府の介入と承認が必要であったために、能力の無い者に対しての就任を拒み適任者として認められた者を就かせている。また「式目」第四十条で将軍の許可なく僧侶が官位の叙官を禁止していた。上横手敬氏の『北条泰時』に「幕府が寺社の人事に干渉するのは。破壊僧が要職に就き、神事・仏事がなおざりにされ、財のみをむさぼることを恐れてである。寺社が社会的・経済的特権を持つのも良いし、財物を寄進されるのも良い。しかしそれは神仏に寄せられる特典であり、僧侶は一途に修行をつみ、神仏に仕え、人間の救済に努める事によって、世の信託に答えなければならないのである。このように考えると高僧を敬い、仏事に熱心であった泰時が僧兵に対して加えた強い弾圧も理解される。泰時は僧侶の生活を保障する代わりに僧侶が聖職者としての本文を守ることを求めたのであるが、現実の僧は多くは、破戒僧であった。」と記している。泰時が傾倒した明恵上人は、禁欲と自戒を重んじ、世俗を退け僧侶の道を示した。泰時からの荘園の寄進を拒んだのも僧侶には富が大敵で兵仗を帯びたり、飲酒を行ったりして堕落する原因としている。泰時の仏教対策は明恵の影響からともいわれるが、僧侶の兵仗は泰時にとっての世の道理に全く反した事であったと考える。
(写真:京都石清水八幡宮)
嘉禎元年(1235)五月には、石清水八幡領の山城国薪庄と興福寺領同国大住庄との用水相論が起きる。その際に薪領の庄民が大住庄の庄民を殺害したので、翌六月四日に興福寺・南都の衆徒は薪庄に押し寄り、在家六十四余棟を焼き払って石清水の神人を殺害した。閏六月に石清水では神輿を奉じて訴えるために上洛しようとする。朝廷は伊賀国大内小・因幡国を石清水に寄進して石清水の神人を留意させた。幕府はこの対応を聞き石清水の強訴と神人を戒め朝廷に申した。『吾妻鏡』嘉禎元年七月二十四日城にて、「因幡国を寄進されたため、神輿の入洛を留め奉った。無道な濫訴によって不相応な朝恩に預かるのでは、諸山諸寺の乱暴は断絶する事はなく、世のため人のため、最初から最後まで不快な事である。関東からどうして計らい申し上げないでおかれようか。今後もし軽々しく神輿を動かして奉れば、別当職を解任されるよう奏聞するであろう。他の所の姑は貫主の命令に背いて、ややもすれば蜂起を起こす。塔宮の神人に至っては別当の許しが無ければ、どうして里の無い乱暴を行うであろうか。兼ねて存知するように」という趣旨の文書を奏上している。しかし、この年の十二月にも石清水の諸司が春日大社の神人と衝突し、石清水の片野宗成りが春日社の神人を射殺するという事件が起きた。藤原氏の氏神である春日大社当時寺であった興福寺は当時一帯であり興福寺の僧兵は、強訴によって春日神社の神木を担いで上洛する。その要求事項は石清水別当宗清および権別当棟清を遠流に諸士、宗成の禁獄、そして薪庄を興福寺に寄せられたいと言う事であった。これに対して朝廷は六波羅の武士を派遣してこれを防がせ武士と衆徒は宇治川で対峙させる。
(写真:奈良春日大社)
『吾妻鏡』嘉禎元年十二月二十九日条、「六波羅の飛脚が(鎌倉に)到着して申した、「去る二十四日の辰の一点に、南都の宗徒が春日社の神木を捧げて木津川辺りに向けて出発したので、在京の武士等が勅命により防ぎとめるために皆で急いで急行しました。これは(石清水)八幡宮の神人と春日社の神人とが争った時、春日社の神人が多数負傷したので、訴え申すためである。執柄家(摂政・関白の異称)や藤原氏の公卿は皆、門を閉ざしました」。すぐに武州(北条泰時)が御所に参られ、評定衆も参上した。丑の刻になるまで条々の審議が行われた。この事は朝廷の重大事であり、御使者を進めて処置すると決定した後、飛脚は京に帰った。」。 幕府の方針は宗成を禁獄し、両者の申し状を糾明した。また「石清水社も因幡国知行の停止を計るが、それでも僧兵達が鎮まらなければ勅命に背いた事になり、武士を遣わし鎮定する。」との裁定の内容を興福寺に伝えている。そして「一旦命を奉じて出陣した以上、敵を殺し、首を鉾にかけるのが武士の本懐である。しかるにせっかく努力して僧兵を討っても、かえって神仏に抵抗したとして咎めを蒙ることが少なくなかった。これではます益々勝ちに乗じるし、武士もやりきれない。故に今後は、武士達に過失があっても、罪を問われぬように計らいたい。近年僧兵が蜂起すると、それを鎮める弥縫策(びぼうさく)として、僧兵の要求を容れて色々の人を社罰し、一方蜂起した僧兵の張本人の処罰はいつでもいい加減になっている。これでは悪僧の跳梁は止まないし、正しい政治も行えないから、今後は断固として悪僧を戒めたい」と申し送った。
翌年の嘉禎二年二月に評定衆後藤基綱が上洛し、幕命を伝えるため兵を率いて木津川に至った。その幕命を知ると僧兵が幕命を理解したのか、幕威に恐れたのか事態は急遽解決した。
(写真:京都六波羅蜜寺)
『吾妻鏡』嘉禎二年二月二十八日条、「今日、六波羅の飛脚と大夫判官(後藤)基綱の使者が(鎌倉に)到着して申した。「去る十四日、基綱は木津川の北に向かい、使者を河の南(春日社の神木が鎮座している場所)に遣わしたところ、衆徒が皆やって来たので、御裁定の内容を詳しく答問しました。衆徒は全て承服し、そこで同二十一日に神木を本社へ返し奉りました。翌二十二日、殿下(藤原道家)の御邸宅では元三(がんさん、がんざん:年、月、日の三つのはじめ〔元〕である事から正月一日、また正月の三が日を元三日という)軒式が行われ、同じく(道家は)威儀を整えて参内されました」。と記される。『明月記』嘉禎元年十二月三十日条に「昨年末以来の春日氏神木の動座により、道家は正月の祝いである元三日の儀式を中止していた」とある。しかし、朝廷は約束した石清水別当宗清の解任の約束は果たされず、同年七月には興福寺の僧兵が再び蜂起した。再び基綱が上洛し、武士達が奈良から京都に通じるなら海道の関に守り、衆徒に備えた。興福寺側も武士の乱入があれば一同焼死すべしと築城し戦備を整える。これに対し幕府は従来守護の無かった大和に初めて守護を置き、幕府に通じている奈良の僧・隆円に興福寺の所領を調査させた上、それらの荘園を没収して地頭を設置した。畿内近国の御家人に命じて奈良に通じる道を抑え、諸人の出入りを塞ぎ、糧道を完全に断つ。この処置により興福寺側は糧食に窮した。『中臣祐定記』「理訴を以って先とし、問答を以って先とする」事から退散し、事態は沈静する。幕府も守護・地頭の停廃止し、宗清は軽罪に処するように奏上された。興福寺側にも直ちに張本を召し出すように申し入れ、もしも調本が逃走したならば宣旨を下して捕らえ、後には地頭を設置するよう興福寺に伝えた。
―続く―
(写真:奈良興福寺)