北条泰時の晩年は、東西政局の安定と亡くなった嫡子時氏の子息・経時と時頼の育成により、北条得宗家の確立であったといえる。『御成敗式目』で述べたように寛喜二年三月四日に六波羅探題についていた時氏に代わり異母弟の北条重時を就かせ、重時が就いていた小侍別当に同じく異母弟の実泰を就かせた。
実泰は、伊賀方を母に持つ正村の同母弟であり、正村は後に泰時の曾孫の時宗の代理として執権に就いている。実泰は、烏帽子親に故将軍・実朝が烏帽子親で偏諱を与えられ実義を名乗った。貞応二年(1223)十月十三日に祗候番に任じられ、翌元仁元年(1224)、十七歳の時に父・義時が急逝し、義時の後妻・伊賀方が同母兄の正村を後継者に立ようとした伊賀氏事件により尼将軍であった北条政子が伊賀の方を流罪としている。正村・実義兄弟も連座に問われるが、異母兄の泰時の計らいにより免れ、父・義時の遺領である武蔵の国六浦壮(現横浜市金沢区)に所領を与えられた。泰時から偏諱を与えられ実泰に改名したとされる。これは北条得宗家と極楽寺流嫡流の赤橋流だけが、将軍を烏帽子親として偏諱の一字を与えられるとした。次代の実泰の子・実時は北条得宗家も当主が烏帽子親となり一字を与えられている。金沢流北条氏の当主と大仏流北条氏の当主はそれよりも家格が低く得宗家を烏帽子親とする家へと位置付けられた。実義から実泰の改名はその先例と考えられる。
実泰の小侍別当就任は兄である有時・正村を飛び越したもので、泰時はその能力の高さと忠実さを考慮した起用と考えられる。しかし、伊賀氏の事件以降の立場の不安定さから精神的安定を崩したと考えられ、四年後の天福二年(1234)『明月記』同年七月十二日条に「六月二十六日の朝、誤って腹を切り度々気絶し、狂気の自害かと噂された」と記されている。また「北条一門は毎年六月に事が起きる」と述べて、小怪異・妖言等をほのめかした。同月三十日に病を理由に家督を十一歳の嫡男・実時に譲り実泰は二十七歳で出家した。そして嘉禎三年(1236)九月二十六日に死去し、享年五十六歳であった。実時は十歳で元服し得宗家当主執権の北条泰時が烏帽子親として偏諱を受け実時と名乗っている。父・実泰の出家後小侍別当を移譲されるが、若年を理由に各所から反対の声が上がったが、泰時はそれを押さえて起用した。その頃、泰時の子息・時氏・時実が相次ぎ早世し、亡くなった経時の長子である経時が家督を継ぐことになっていた。泰時は経時の側近として同年代の育成を図ったと考えられ、「両人相互に水魚の思いをなさるべし」と言い含め実時が交互に別当に就き三度にわたり同職を務めた。後の四代執権経時、五代執権時頼政権において側近として引付衆を務めている。北条泰時にとって極楽寺流・祖である重時と金沢流の祖・実泰は特に信頼を強めた人物であった。正村流と共にこの三家は、後の北条得宗家を支えている。
北条義時の次男・朝時について記載する。北条泰時の異母弟で母が姫の前であり、名越流北条氏の祖である。続き母が同じく姫の前の重時。側室の伊佐朝政の娘を母にする伊具流北条氏の祖・有時が続くが、義時の葬儀の序列においては継室(正室)の子である正村、実泰よりも下位に位置付けられた。しかし承久の乱においては泰時に従軍しその後将軍近習、鶴岡八幡宮奉幣使を務め仁治二年(四十二歳で評定衆に抜擢されている北条朝時は。そして継室の伊賀方を母に持つ正村、実泰、時尚がいる。
北条朝時は、建久四年(1193)の生まれで、兄泰時とは十一歳違う。建永元弁(1206)十月に元服し、将軍実朝より偏諱を受け朝時と名乗った。建暦二年(1212)五月七日、二十歳の朝時は将軍実朝の御台所(西八条禅尼)に仕える官女である佐渡の神近安の娘に艶書(えんしょ:恋文)を送るが、一向になびかなかったために、深夜に娘の局に忍び込み誘い出した。この事が露見して実朝の怒りを買い、父義時から義絶され駿河国富士郡で蟄居する。しかしその翌年の建暦三年(1213)の和田合戦に参戦して泰時と共に御所を守り、和田義盛の三男朝比奈義秀と戦い傷を負った。朝朝比奈義秀の奮戦は『吾妻鏡』において、五月二日「神の如く総力を明らかにし、彼に適する軍士に死を免れる者無し」と称賛を記している。また五月四日には、「相模次郎(北条朝時)が御所中に参上し、庭を通って小御所の東面の簾の中に入った。歩けないので、匠作(北条泰時)が助けられた。これは去る二日に(朝比奈)義秀と戦って傷を負ったのである。」と記している。義絶され、蟄居の身であった朝時は、父義時から呼び出されたか、無断で参戦したのかは定かではない。承久の乱では、北陸道の大将軍として、東海道・東山道軍より遅れ上洛している。貞応二年(1223)十月には外祖父の比企朝宗がかつて北陸道勧農使(守護の前身)として管轄していた加賀・能登・越中・越後などの北陸道諸国の守護を式部小丞と兼任した。元仁元年(1224)六月、朝時が三十二歳の時に父・義時が急逝し、六波羅探題として兄泰時が在京していたため父の葬儀を弟たちと共に行った。伊賀氏の事件を経て泰時が三代執権となるが、この時の朝時の動向は定かではない。
『吾妻鏡』には貞応三年(1224)七月三十日に北条義時の四十九日仏事が行われたと記されるが、『湛睿説草』には、朝時が四十九日に仏事で仏前で読み上げられる言葉を記した「慈父四十九日表白」の中に同年閏七月二日と在り、朝時自信を施主とした仏事を別に行った事が記され、『吾妻鏡』嘉禄元年(1225)五月の義時喪明けも重時以下の弟が泰時に従っているのに対して、朝時は前日の単独で行った。朝時は、北条時政の邸宅であった名越邸を与えられた。しかしその時期は不明であり、初代執権の邸宅である名越邸を与えられたことで、嫡子として考えられていたという説もある。しかし、牧氏の変を起こし、執権の座を追われた時政の邸宅を与えられたことで嫡子と考える事は無理がある。同母弟の重時が承久元年(1219)に小侍別当に就任し、承久の乱に参戦していなかった重時が貞応二年に駿河守に任じられ朝時の官位を超えてしまった。これらの事から父義時との関係が良好ではなかったとも考えられている。しかし執権となる泰時は父遺領の多くを朝時や他の弟たちに与えており、名越流は一族内でないでも高い家格を持つ有力な家となる。
『吾妻鏡』寛喜三年(1231)九月時の名越邸に強盗が入り、兄泰時は政務を投げ出して駆け付けた事が記されており、朝時は感激し、子孫に至るまで威への忠誠を誓う起請文を書いた。
嘉禎二年(1236)九月には評定衆に加えられたが、初参の後即辞退しており、幕府中枢から離脱の姿勢を見せている。しかし他の弟たちが幕府中枢に就任する中、朝時は重用されることは少なかったといえる。
仁治三年(1242)六月十五日、泰時の逝去。兄・泰時の死に伴い翌日に出家し生西と号した。『平戸記』仁治三年五月十七日条、泰時の死の前後、家人たちに送れて朝時が出家した事を、都では「日頃疎遠な兄弟であるのに」と驚きと不振を以って噂された事が記されている。また、朝時自らが北条本流という自負を持っていた可能性もあるとされ仁治三年の政変にも影響があったようである。朝時は泰時の死の三年後の寛元三年(1245)四月六日享年五十三歳で逝去した。その後の名越流は、朝時の嫡男光時・時幸・教時らが得宗家に反発し、宮騒動、二月騒動などを起こしている。 ―続く―